Green Hills 第1幕
その低い声に、僅かに怒りが混じっていることに、キャスターは気づかない。
「あら、あなたもやってみる? なかなかにしぶといのよ、令呪をもう一つ使えば簡単なのだろうけど、それじゃあ、面白くないでしょう?」
キャスターの持つ短剣が切っ先で傷をつけながら胸元から下りて、シロウの腹に突き立った。
「っ!」
刺した短剣を、ぐり、と捻り、
「っぐ」
シロウが呻くとキャスターは可笑しそうに、コロコロと笑った。
「このまま胸まで割いてみましょうか? ねえ、セイバー?」
残忍な笑みを浮かべて、キャスターは短剣を持つ手に力をこめる。
「やめろ」
血に染まったキャスターの手首を掴んで、静かにアーチャーは止めた。
「放しなさい。あなたに命令される謂れはないわよ」
「これ以上やれば、いざという時、使い物にならなくなる」
それでようやく気づいたのか、キャスターは足元を染める夥しい血の痕を見つめる。
「そうね……。これでは、すぐには使えな――、マ、マスター?」
ハッとして短剣から手を放し、マスターの気配を感じたキャスターは階段へ向かう。
「もう飽き飽きだわ。セイバーが堕ちるのも時間の問題でしょう。アーチャー、傷を塞いでおいてちょうだい」
勝手な命令を下してキャスターはいそいそと階段を駆け上がっていった。
「無茶をする……」
低い呟きに、シロウは霞む目を開けた。額当の向こうに見えるその表情が、どこか辛そうに見える。
「アー……チャー……?」
掠れた声で呼ぶと、驚いたようにアーチャーが顔を上げる。
「まだ……意識があるのか?」
しばしシロウの顔を見ていたアーチャーは、さらに辛そうに視線を落とした。
「抜くぞ」
腹に刺さった短剣を握ったアーチャーは静かに言う。それに小さく頷き、シロウは歯を喰いしばった。
「っ!」
アーチャーの放り投げた短剣が、カラン、と乾いた音を立てて石畳に落ちた。傷口から溢れ出る血をアーチャーの手が押さえる。
「傷は塞いでおく。キャスターの命令だからな」
下を向いたアーチャーの表情はシロウには見えなかった。意識がもうはっきりしない。それでも、辛そうだと思ったのは、これがアーチャーの本意ではないと知っているからか……。
「……アー……チャー……」
シロウの意識が落ちていく。
ダメだ、と抗いながら痛みで保っていた意識を奪われていく。傷を塞がれるのはありがたいが、縋る痛みがなくなれば、このままキャスターに屈してしまう。
(伝えたいことが……あるんだ……)
必死に声に出そうとした。
今、伝えておいた方がいいかもしれないと思うのに、シロウはもう言葉も声すらも発することができなかった。
血に染まった青藍の衣は裂け、あまり意味がないが、ボタンを外して前を開き、白い肌にいくつも走る生々しい傷に触れる。
意識を失ったシロウはピクリとも動かず、腕を吊られた状態だ。さらに手首にワイヤーのような魔力の糸が食い込み、血が滲んでいる。このままでは肩の関節が外れるか、手首がちぎれてしまう。
忌々しげにキャスターの手枷を睨み、アーチャーは剣で絶ち切った。後で何を言われようとかまわない。すでに意識を失っているのだ、キャスターの手に堕ちるのは時間の問題。
糸の切れた操り人形のように倒れ込むシロウの身体を抱きとめ、アーチャーはそっと血のりの無い石床に下ろした。
「セイバー、お前は、何者だ……」
傷を治癒しながら、アーチャーは思わず呟いてしまう。
微かな記憶のセイバーとは違う英霊。確かに青銀の騎士ではあったが、自分が出会ったのは、聖女のような騎士だった。
見覚えのないセイバーに訝しさが募る。だが、どこか、親しみが湧く。
「何を……」
何をくだらないことに気を取られているのか、とアーチャーは自嘲の笑みをこぼす。己の願いはただ一つ、衛宮士郎を亡き者にすること。この世界から抹消することだ。
凛との契約を破棄することには成功した。このまま彼女がセイバーをサーヴァントにすれば、この聖杯戦争を勝ち残ることができる、と確実に思い通りに事が運んでいることに、アーチャーは逸りそうになる気持ちを抑える。
そして、自分は念願であった衛宮士郎を抹消する、とアーチャーは昏い想いを沸々と滾らせる。
これで、全てが終わるのだ、とアーチャーはシロウに今一度、目を向ける。
「セイバー……」
もう少し何か、このサーヴァントと話をしてみたかったとアーチャーはシロウの衣服を整えながら思う。
立ち上がって、一度シロウを見下ろし、断ち切るように踵を返した。赤い外套が翻る。迷いを捨ててアーチャーは歩き出した。自らの悲願達成のために。
「セイバー!」
身体を起こしたシロウに駆け寄ったはずの士郎は、逆に体当たりをくらった。
「っぶ、わ! な、なに? ご、ごめん、セイバー、遅くなって――」
助けに来るのが遅いと怒っているのかと思い、思わず士郎は謝る。今まで意識すらなかったくせにどこにそんな力が残っていたのか、と身体を起こしてシロウを不満げに見上げる。
「士郎、下がれ」
片膝をついたままで、シロウは剣を構えている。
「え……?」
何が起こったのかわからない。シロウに体当たりをくらう前にいた場所には剣が突き立っている。
「セイバー。邪魔をするな」
シロウが睨む先に士郎も目を向ける。
「アーチャー! 何をやってるのよ!」
口を出す凛を剣の檻に閉じ込め、アーチャーは両手に双剣を投影する。
「その身体では身を保つのもギリギリだろう? すでにマスターであるキャスターは消えた。お前が消滅するまでそう時はない」
青藍の衣がチリチリと端から消えかかっている。
「それは、あんたも、同じだろう」
「私はあと二日ほど存在できる。十分にその小僧を仕留める時間はある」
ぎり、と歯を喰いしばるシロウを見下ろしていたアーチャーが床を蹴った。
ガッ!
アーチャーの双剣をどうにか止めることはできたが、力が出ない。シロウは片膝をついてしまう。額当に、ぴし、とヒビが入った。シロウの衣はすでに片袖が消えている。むきだしの白い肩が見え、どんどん衣は消えている。すでに鎧も無く、左足は膝下から素足が覗く。
「そんな身体で何ができる」
アーチャーの蹴りをまともに受け、シロウは壁まで飛ばされた。一歩ずつアーチャーが士郎に迫る。体力も魔力も枯渇状態の士郎は動けない。
「やめ、ろ、アー、チャ……」
わき腹を押さえ、シロウは声を絞る。
(ダメだ、やめろ!)
動かない身体を叱咤して、剣を支えに立ち上がろうとする。
「律儀なことだな、たかだか、こんな半人前風情に」
アーチャーの嘲笑う声が、シロウには切なく聞こえる。
「やめ……っ」
必死に願った。喉まで出そうな言葉を飲みこんだ。
そんなことをしても無駄なのだと、そんなことをしても救われないのだと、伝えたい言葉はいくつもあるのに、今は言うべき時ではない、とシロウは唇を噛み切った。血が顎を伝う。アーチャーはその様に目を瞠った。
「ハッ……、そこまで従うこともないだろう。すでにマスターでもない者に、その資格もない、こんな未熟者に、お前がそこまで身体を張ることなどないはずだ」
「やめっ……てくれ……」
作品名:Green Hills 第1幕 作家名:さやけ