敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女
人工血液
22世紀の科学技術はほぼ完璧な性能を持つものと言える医療用人工血液を開発していた。赤血球をO型にしてあるのでほぼ誰にでも輸血することができ、血管の内側から傷をふさいで出血を止める力も自然の血液より強い。容器に詰めて長期保存もできるので、あなたの手足が事故でもげても輸血液の心配はたぶんしなくて大丈夫だ。
〈ヤマト〉のクルーは全員が適合検査にパスしており、この〈血〉が身体に入っても問題がないと確認されていた。もちろん〈ヤマト〉艦内のラボで製造することができ、昨日も青コード服の技術科員がトマトケチャップ屋でも開いたようにして、〈B-76〉と呼ばれるそれをセッセと作って積み上げていた。
必要と考えられる最大限の量を用意していたのだ。これ以上に血が必要になることはない。そうなる前に船は沈むか、乗組員はみんな死んでどうせ輸血のしようなどなくなっている――そう船務科は想定していた。
しかし今、その血液がなくなっている。医務室は使い切ったトマトケチャップの容器のようなポリパックで一杯だった。
「これほどのケガ人が出るのは予想の範囲外だったんです」
森に向かってひとりの医務員が言った。その彼もまた血まみれで、袖や裾から血をポタポタと垂らしている。
「普通はこんなになる前に船は沈められているはず……こんな状況は聞いたこともない」
「それは敵が……」
「ええ。わかってるんですが」
敵は〈ヤマト〉の乗員を、殺すよりも多くをケガさせることで戦えなくする作戦を取った。罠に見事に嵌ったために、医務室は今ケガ人が溢れ、床は血の海となっている。
ケガ人には当然輸血が必要だ。想定を大きく超える量が使われることとなった。そしてもうじき尽きようとしている――。
「新しく作れないの?」
「無理ですよ」と横から結城が言った。「ラボだって今は冷凍庫なんですから。それに、もし作れたとしてもそんな急に……」
「ええ」と医務員。「だいたい、昨日に材料をあるだけ使い切ったそうです。だから、材料の下準備から始めなければならないはず……」
「ううう」
「血が足りません。今ある分だけではとても全部のケガ人を救けられない。何十人も死なせることになってしまうかも……」
「そうなったら……」
と結城が言った。そうだ。もちろんわかっていると森は思った。〈ヤマト〉は乗員の補充ができない。ここで勝っても地球にいったん帰還して死んだ者の代わりを乗せるというわけにいかない。生き残った人間だけでマゼランへの旅を始めねばならないのだ。
ゆえに、ここで救けられるのに救けられない者などひとりも出してはならない。戦いの場でクルーの命を護るのも船務科員の務めであり、森はその長なのだった。この状況をどうすればいい?
考えた。その途端になぜかふと、古代進の顔が頭に思い浮かんだ。え?と思う。何よ急に――考えながら結城を見る。この子が前にいるからかなと森は思った。
結城と顔を合わせるのは作戦前に古代を起こしに行かせる役をあてがったとき以来だ。古代に状況を説明し〈タイガー〉の格納庫まで連れて行く。ただそれだけの役なのに、新人女優が劇団の運命背負った大役でも押し付けられたような顔して『ハイ』と頷いていた。
まあ無理もない。起こす相手があれじゃあ――しかし、結果どうだったろう。森はワープの三十秒前、艦橋のメインスクリーンを見上げて眼にした光景を思い出してみた。タイガー戦闘機格納庫で、その場にいた他の船務科員らと共に、『おれは生きて帰る』と叫んでいた結城の顔。
あれは古代の力だった。だが、と思う。何よ、と思う。あなたがあれをやれたのだって、この結城と、わたし達船務科員のおかげなのよ。あなたなんかいつもたまたま目立つとき目立つところにいるだけじゃないの。
血が足りない。重傷者を救けられない。それでは後の航海もできない。どうする――。
「できることから始めましょう」森は言った。「人から血を採り、輸血することもできるのよね?」
医務員が応える。「ええもちろん。イザというときの用意はあります」
「じゃあまず、あたしから採って」
「船務長から?」と結城が言う。
「そうよ。当たり前でしょう? 血を採りながらどうするかを考えるのよ」
作品名:敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女 作家名:島田信之