敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女
ラグランジュ・ポイント
カタカナ語辞典で【ラグランジュ・ポイント】という語を引くと、このように記されているのを読んで正しく理解できるようになっている。《フランスの数学者ラグランジュ(1736-1813)の解析によって明らかにされた、宇宙空間を運動するふたつの天体の相互の位置が決定している場合にその二天体に対する第三の天体の軌道を安定させる点。たとえば月と地球のラグランジュ・ポイントは五つあるが、うちふたつは月と地球と正三角形を成す完全な安定点で、この位置に宇宙ステーションを建設したとすれば月と地球と常に一定の位置関係を維持させることができる》うんぬん。
「それがなんです?」
と新見が言った。ややこしい定義はともかく、宇宙時代に〈ラグランジュ・ポイント〉と言えば誰でも学校の理科の時間に習いはする言葉だった。小学生を理科嫌いにさせるような言葉だった。うん、まあ、宇宙にそういう点があるのはなんとなくわかる。特に〈ポイント1〉はわかる。けれども先生、〈2・3・4・5〉が、全然わかんないんですけど。なんでどうしてスペースコロニーを置くならそこになるんですか?
『まあとにかく覚えときなさい。君らが大人になる頃には、ここでスペースコロニーが建設されるかもしれないから』
20世紀の昔から、宇宙が舞台のSF小説などではよく使われていた言葉だ。月の裏側の〈ポイント2〉にあるスペースコロニーが地球に独立戦争を挑み、手始めにそこが最も安定していて一度置いたらもう決して動かないと言われた〈ポイント4〉と〈5〉にあるコロニーを地球に落とす。地球はこれに対抗するため、〈2〉とは真逆の〈ポイント3〉にあるコロニーで秘密兵器を開発する――なんて具合に。〈ポイント1〉は地球と月の中間の、ふたつの星の引力がちょうど釣り合う場所である。
「だからつまり」と真田は言った。「冥王星にはカロンがある。母星に対してあまりに大きな衛星なために、互いに互いをまわり合うような関係になっている。当然、この星で人工衛星を飛ばしたら、軌道はカロンの引力のために乱れたものになってしまう」
「そりゃまあ」
「だろう。しかしやつらは衛星を三つも四つも鏡にして〈ヤマト〉を狙い撃ってきた――妙だとは思わないか? これはかなり複雑な計算を要する狙撃なはずだ。歪んだ台でビリヤードをやるようなもの……」
「そうか、確かに」
と南部が言った。砲雷士だけに理解が早いらしい。
「それで、ラグランジュ・ポイント……」
「そうだ。カロンと冥王星は、当然ラグランジュ・ポイントを作る。そこに置かれた物体は、ふたつの星に対して同じ位置を維持する。ならば鏡の衛星は、きっとそこにあるはずだ。とにかく、最初の衛星はな。ビームはまずラグランジュ・ポイントの衛星を狙い、次の衛星に反射する……」
「ははあ」と新見。「それじゃ、さっき『波動砲でカロンを撃てば』と言ったのは……」
「そう。重力の均衡点を無くせという意味だったんだよ。今、カロンが無くなれば、敵の衛星はまともに位置を保てなくなる。鏡を使って〈ヤマト〉を狙い撃つのは不能と言いたかったんだ」
あいにく、実行不能なわけだが――真田は思った。とにかく、ラグランジュ・ポイントだ。衛星がそこにあるのはまず間違いのないところだ。昔、ガミラスが来る前にスペースコロニー計画を提唱していた役人や政治家は言っていた。スペースコロニーは安全です。決して地球に落ちません。なぜなら、それを我々は〈ラグランジュ・ポイント4〉と〈5〉に建設するからです。このふたつは地球と月の引力が宇宙に作る笑窪(えくぼ)のようなものでありまして、一度そこに納まったものはピタリ完全に固定され、決して動かないのです。ゆえにコロニーが軌道を外れて落ちる心配などと言うのは、まさに杞憂(きゆう)と呼ぶべきもの――。
理屈としてはその通りだ。それがあまりに巨大に過ぎる構造物でないのなら、真田も『万一』などと言わない。しかし人類が住む圏には、地球と月と太陽の引力の他にもうひとつ、別の力が働いている。
カネの力だ。人はお金の力で動く。だからスペースコロニーも、カネの力で動くだろう。一千人の弁護士が悪人どもをかばいたて、決して許してならない者を無罪とする日が来るだろう。そのときスペースコロニーはいとも容易く重力の窪みの縁を越えるだろう。地球に落ちて十億人が死ぬときに、金持ちだけが火星に逃げることだろう。
その日は必ず来るだろう。さして遠くもないだろう。たぶん、おれが生きてるうちにも――真田はそう考えていた。そうなる前に完全に破壊できる手段がないなら、宇宙に巨大建造物を浮かべることがあってはならない。
真田はそう考えていた。だからそのために波動砲を――が、それは別の話だ。今は〈ヤマト〉を笑う〈魔女〉を倒すことを考えなければならない。冥王星とカロンとは互いにまわり合っている。だから人工衛星はタマゴを転がしたような軌道を描く。ラグランジュ・ポイントならばグラつきはしないのだから、敵は必ずこれを利用していると見るべき。
波動砲でカロンをもし撃てたなら、敵は鏡の計算をまったくできなくなるはずなのだ。脚の折れたビリヤード台で玉を突くようなものになる。しかしそれができないとなれば?
「ラグランジュ・ポイントねえ」
太田が言って、メインスクリーンに冥王星の図を出した。《L1》《L2》《L3》……と、重力の均衡点が示される。
「どれです? まあ、〈2〉や〈3〉てことはないでしょう。〈1〉か〈4〉か〈5〉ですけど」
「〈1〉もないだろうな。〈4〉と〈5〉だ。その両方……」
「うーん」と太田。「それ、結構広いですよ。レーダーで見つけられますかね?」
南部も言う。「見つけられれば副砲で撃ってやれもするでしょうけど、どのみち海の上に出なけりゃ……」
さらに新見が、「敵も甘くないでしょう。そういうことなら、その衛星のまわりには、ダミーがいくつも浮かんでいると思います。ただの張りぼての飾りですね。百個もある囮のなかから、本物の的を見つけて印を付けなきゃいけないことになるんじゃないかと」
島が言う。「いずれにしても、水に潜ったままじゃダメでしょ。けどいま出たら、殺られるだけ……」
「ふむ。今の〈ヤマト〉には無理……」と真田は言った。「しかし戦闘機ならどうだ?」
作品名:敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女 作家名:島田信之