敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女
悪魔の血
採血用の太い針を見た瞬間に身がすくんだ。それが腕に刺されるとき、やめてと叫んで医務員を突き飛ばす衝動にかられた。歯を食いしばってそれに耐え、針が静脈を刺すのを見つめる。赤い血液がチューブを伝って出ていくのから森は眼が離せなかった。
バカね、このくらいが何よと思う。あのときのことを思い出しなさいよと自分の中の自分が言う。伸ばした腕には古い傷跡がある。この傷を縫われたときの記憶は今も鮮明だった。
あの日、森は医師の手が肌に針刺し糸を繰ってく光景を見ながら、隣の部屋で叫ぶ母の声を聞いていた。お願いだから輸血はしないで。他人の血をあたしの身体に入れないで、と母は泣いて叫んでいた。
無論、あの病院だって、救急用の輸血液は人工の〈B-76〉だったはずだ。医者も『これは人工ですよ』と母に繰り返し説明していた。しかし母は耳を貸さずに、嘘よ、他人の血なんでしょう、騙されないわよと喚き続けた。
実際、あれだけの元気があれば、輸血の必要なんてそもそもなかっただろう。母の声を聞いたのはそれが最後だったから、どうなったのか知らないが。家に帰っても親はなく、代わりにいたのは『ここはもう君の家ではない』と告げる者達だった。それが親の〈協会〉の人間なのはひと目でわかった。そして、自分の親のような事をしでかした者がどうなるかと言うことも、森はよく知っていた。
教団から追放される。その子供も同罪だ。お前は悪魔だ、悪魔に取り憑かれたのだ、どこへなりとも立ち去るがいい! 地獄で永遠に焼かれてしまえ! そう叫んで追いたてられる。憐れみなどかけたなら自分も悪魔に取り憑かれると信じ切っている人間に何を言ったところで無駄だ。
森はそれをよく知っていた。人工血液がある現在、輸血禁止の戒律など意味ないはずだ。にもかかわらず、あの教団は昭和の頃から人に『なんで』と言われてきたその戒律を掲げている。輸血液は悪魔の血だ。その血を決して受けてはならぬ。
バカらしい――思いながらも、チューブの中の血を見つめずにいられなかった。自分は実は間違ったことをしているのではないか。そう思わずにいられない。その血はやはり悪魔の血で、別の体に取り憑こうとする寄生虫の卵のようなものが含まれているのじゃないか。それとも、実はいま自分は献血しているのでなくて輸血を受けてしまっている。わたしの体に本当の悪魔の血が入り込んでいるところなのでは、とか――。
そんな想いが頭をよぎる。イヤだ、この針を引き抜きたいという感情が湧き上がる。
しかしその一方で、それならそれでいいじゃないのと心の奥で笑っている別の自分がいる気もする。いいじゃないのよ、悪魔の血でも。それが他人に入るのであれ、わたしの体に入るのであれ。
いいじゃん、むしろその方が。あの親どもが神と呼ぶウザいだけの存在よりも、悪魔の方がずっとマトモで人のためになってるじゃん。ザマア見ろよね。今、あたし、人に献血しているのよ。この、人類の存続が成るかどうかの戦いの中でよ。あはは、本当にザマアミロだ。父さんと母さんに今のあたしを見せてやりたい。
三浦半島に遊星が落ちたあの日に父母が『献血献血』と叫んだ顔を思い出すと、頬が緩むのを森は抑えられなかった。ニヤニヤと笑っていると、
「船務長?」
声を掛けられた。結城が怪訝(けげん)な面持(おもも)ちでこちらの顔を覗き込むようにしていた。
「大丈夫ですか?」
「え? あ、うん」
「針の具合が悪いとか……」
「え、いや、別に」
「ならいいですけど」と言った。「それ、やっぱりどうしてもダメって人いますよね。生理的に耐えられないって言うんでしょうか」
「うん、まあそうね。あはは」
「?」
「とにかく」と言った。「輸血液がなくなって、クルーから血を採らねばならなくなった場合のマニュアルはあったはずよね。まずそれを検討しましょう」
「はい。ええと……これかな」
タブレットを操作して森に手渡してきた。ざっと眼を走らせる。
「この通りにやるって言うわけにはいかない……こんな状況を想定してるわけじゃないんだから」
「まあそうでしょうね」
「でもとにかく、医務員から誰を血を採る作業にまわして、クルーの誰から血をもらっていくかの問題はあるわけでしょう。それはこいつを参考にして、現場で決めていけばいい。船の回復に追われていない者を把握して、そうでない要員から……」
いくつか決めて船内通話器で船務科室を呼び出した。副船務長に指示を出し、採血を終えたら自分もすぐに行くと告げる。
「で、次の問題は」と言った。「クルーのひとりひとりからあまり多くの血を採るわけにはいかないということよね。海を出た後〈ヤマト〉は敵の戦艦と戦わなければならない。そうするとまたケガ人が出るでしょうけど、献血で血を抜いてるクルーが負傷したならば……」
「その出血が命取りになりかねない」医務員が言った。「もう誰からも血を採れず誰にも輸血しようがない」
「つまり、これ以上ケガ人は出せない」結城が言った。「重傷者がこれ以上に出てしまったら、そのときは……」
作品名:敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女 作家名:島田信之