敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女
橘の間
「一文字(いちもんじ)君、今日までよくわたしに仕えてくれた」
と男は言った。名を石崎和昭と言う。涙を浮かべた眼で前に立つ者を見る。
相手の男は途方に暮れているようだった。
「先生……」
「その呼び方はやめたまえ。今から君が総理大臣代行だ」
変電所内の、来客の応接用の部屋らしき一室である。〈橘(たちばな)の間(ま)〉という名前がなぜかついているらしい。そこに今、何人かの人間がいた。
石崎を囲んで赤・青・黄・緑の宇宙軍艦乗り用の船内服に似た服を着た男達。そしてもうひとり、ピンクの服を着た女。椅子に座ると下着が覗いて見えそうな丈のミニスカートだ。
黄色と緑の服の男はメソメソと泣いている。青い服を着た男はフテ腐れたように横を向いている。〈黄色〉は太った大男で、〈緑〉は中学生くらいの子供だった。そして今、〈代行〉に指名された一文字という男は赤い服。
首を振って言った。「しかし先生……」
「わたしのことは『おやじさん』とでも呼びなさい」
「お、おやじさん……ですが、わかりません。教えてください。ぼくはこれからどうすればいいのですか」
「けっ、何を言ってやんでえ」と青い服の男。「どうせおれ達ゃもうおしまいさ。やることなんか決まっていらあ。ここをドーンと吹き飛ばしちまやいいんだろう。それでズバッと解決よ!」
「風見(かざみ)、お前は黙ってろ」
「なんだ。いきなり代行風吹かそうってのか」
「そんなつもりで言ってるんじゃない。おれ達は小さいときから人と争って勝つことを教えられて育ってきた。学校に入るときも、社会に出てからも人と競争し、勝つことを要求される。しかし――」
「お説教はたくさんだぜ。今はそんな――」
と言ったときだった。『石崎先生ばんざーい!』という声がどこからか聞こえ、ドーンという爆発とともに振動が伝わってきた。大方(おおかた)、迫撃砲でも撃っていた〈僕(しもべ)〉のひとりが、最後に残した一発を自爆に使ったのだろう。
そして銃声も聞こえてくる。変電所の外で撃ち合う銃声と、中で撃ち合う銃声とでは、この部屋への伝わり方が違っていた。裏から入り込んだと言う者達をなかなか排除できずにいるのが、音だけ聞いていてもわかる。
「先生……」
と、ピンクのミニスカ女が言った。石崎が座るソファーの隣に腰掛けていたのが、彼にすがりつくように身を動かす。そのときに脚も動いてスカートの中が見えそうになったが、見えそで見えないギリギリを極めたような角度によってその場にいる誰の眼にも見えなかった。ほとんど奇跡の神業(かみわざ)に等しい。
「だから、『先生』はやめなさい」石崎は彼女の肩を優しく抱いて言った。「今のわたしはもう名無しのゴンベエだよ。これからは、君もわたしを『パパ』とでも呼びなさい」
「はい、パパ……」
「ユリ子……」
ふたりの前のテーブルには、薬の瓶が置かれていた。中に錠剤。『ユリ子』と呼ばれたミニスカ女は、瓶を開けて中身を二個取り出した。そして一個を自分が取って、もう一個を〈パパ〉に差し出す。〈パパ〉は頷いて受け取った。
しばらくの間、微笑み顔で見つめ合う。石崎は言った。
「ユリ子、待たせてすまなかったね。これがぼくらの結婚式だ」
「パパ……」
ふたり一緒に、『せーの』で薬を飲もうとする。しかしそこでピタリと止まって、共に口を開けたまま互いに横目で見つめ合った。どうやらどちらも、もう一方が薬を口に入れるのを待って自分も飲む気らしい。そうしてしばらく固まっていたが、
「一文字」
石崎は薬を持った手を下ろし、何事もなかったようにさっきと同じことを言った。
「今日までよくこのわたしに仕えてくれたな」
「は、はい」と一文字。
「今からお前が総理大臣代行だ」
「えーと……いえ、はい」
「お前には命がある」
「は?」
「一文字。お前は、わたしがこれから命を捨てると思っているだろう。だがそうじゃない。わたしは永遠の命を手に入れに行くんだよ。死んでしまってなんになる。誰もがそう考えるだろう。だが、男はそういうときでも立ち向かっていかねばならないときもある。そうしてこそ、初めて不可能が可能になってくるのだ。人間の命だけが、邪悪な暴力に立ち向かえる最後の武器なのだ。一文字、お前にはまだ命があるじゃないか」
〈黄色〉のデブと〈緑〉のガキは聞きながら嗚咽(おえつ)を洩らして泣いている。〈青〉の風見と呼ばれた男は、「ちくしょう、こんなことってあるか!」と言って壁を殴りつける。〈赤〉の一文字という男だけ、〈おやじさん〉がまだつまんでいる錠剤を眼で追っている。〈ピンク〉のユリ子というミニスカが、顔を覆って身をよじったが、しかしやっぱりスカートの中は覗けなかった。
「先生……いえ、おやじさん……」と一文字。「ぼくには、おやじさんの言われることがわかりません……」
「そうか。しかし、いずれわかるときが来よう」
石崎は言って、指につまんだ薬を見た。皆が『今度こそ飲むのかな』という顔をして見守った。その間にも銃声が聞こえ、爆発の振動が床を揺れさす。石崎は天を仰いで言った。
「何もかもみな懐かしい……」
「おやじさん……」「パパ……」と一同。
「わたしを愛してくれたみんな、さようなら。わたしはもう二度と姿を現すことはない。でも、きっと、永遠に生き続けるだろう。君らの胸に、心に、魂の中に……」
「おやじさん!」「おやじさん!」
「うむ」
と言って石崎は、涙ぐみながら頷いた。それからアーンと口を開け、錠剤を中に入れようとする。
しかしまた、そこで止まった。チラリとユリ子の方を見る。
「パパ」
とユリ子。いつの間にか、彼女は薬をどこかにやってしまっていた。その指には何もつまんでいはしない。
石崎は言った。「人間はひとりではない。誰かはつながる人がそばにいる。それが愛なのだ。だが、人は時につながりかたを見失う。愛がない――これ以上の不幸はない」
「そうよ、その通りよ」とユリ子。「パパのいない地球なんて、あたしにはなんの意味もない……」
とか言いながら彼女の手にもう錠剤はないのであった。石崎は一文字に眼を向けた。
「一文字、今日までよく仕えてくれたな」
「はい、おやじさん」
「今からお前が総理大臣代行だ」
「はい、おやじさん」
「わたしのことはもう今からおやじさんとでも呼びなさい」
「はい、おやじさ……じゃなくて、せん……いえ、おや、せん、おや――じさん?」
「うむ」
と言った。薬を口に入れようとする。皆が『今度こそ飲むんだろうな』という顔をして見守っている。しかしやっぱり石崎は、そこでピタリと手を止めるのであった。
そして言った。「わたしを愛してくれたみんな、さようなら」
「はあ」と一同。
「君らはわたしが、これから命を捨てると思っているだろう。だがそうではない。わたしは生きるためにこれをやるのだ」
「はい」
と一同。いいかげん、『それはもうわかりましたよ』という表情になってきていた。
作品名:敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女 作家名:島田信之