敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女
しかしそれは自分に対して向けられたときだけである。誰か他人が言われたときは決して聞き逃すことはない。〈おやじさん〉はまさにどこかのおやじさんがバイトの若者に注意するみたいに鋭く言った。
「そうだ一文字。男が一度言ったことを変えるものではない」
「え?」と言った。「はあ」
「そういうのは最低の人間のすることだ」
「はあ」
一同が彼らの〈おやじさん〉の顔を、『よくもあんたにそんな口が利けるよな』という視線でスキャニングした。けれどもそのツラの皮は、電子レンジでチンしたとしても中のお肉をマイクロウェーブからきっと護ることであろう。脳がドカンとタマゴみたいに破裂することもないであろう。そのくらい分厚く頑丈なのだ。そして彼のスキャニング・アイは、カエルを睨む蛇のように強力だった。ビビビビビと光を発して缶詰の中のスイートコーンでもポップコーンに変えて炸裂させること疑いなしと言うほどだった。
まず普通の人間は、この男に逆らえない。まして〈石崎の僕(しもべ)〉であれば――ここにいる若者達は、〈おやじさん〉が何かを言えば『ラジャー』と応えて従う以外にないのであった。
「そうだ一文字。男はイザと言うときにやらなければならない」
「はあ」
「今がイザと言うときだ」
「はあ」
「そして一文字よ。わたしは、わたし達は男なのだ」
「ええと……何を言いたいのでしょう」
「わからぬか。そうだろう。大勢の人の中で生きていく厳しさは、お前のような若者にはまだわからないかもしれん。しかしわたしはお前より長く生きている。人生でいちばん大事なものは何か教えてやろう。それは〈歯の食いしばり〉と〈血のにじみ〉だ。いちばんみじめで苦しいときにニタッと笑う。それが男だ」
「ニタッと」
「そうだ一文字。心に棚を作るのだ。それはそれだ。これはこれだ。背に腹を替えることはできんじゃないか。心を広く最大限に活用するのだ。狭く考えるな。大人になれ。昨日までの自分はもう忘れるのだ。いつまでも今のままでいようとするな。〈一文字2(ツー)〉に、〈3(スリー)〉に、そしていつかは〈一文字100(ハンドレッド)〉にならなければいけないのだ」
「はあ……」
「人はお前に言うかもしれん。『朝令暮改(ちょうれいぼかい)もたいがいにしろ』『明日になればどうせ言うことが変わっている』と……しかしそんな言葉に負けるな。そのたび言い返すのだ。『言ったことをわたしは忘れたわけではない。過去を捨てたのだ』と」
(最低)
という言葉を誰もが口の中でつぶやいたが、しかし声として外に出すことはなかった。
石崎は言った。「いいか一文字。それが〈愛〉だ」
「はあ」
「一文字。お前は決して〈愛〉のない男などではない。〈愛〉に満ちた男、言うなれば〈愛〉の化身……」
石崎の背後で妄執のイメージが、巨大な鮫の立体映像がそこに映写でもされたかのように浮かび上がるのがその場にいる者達に見えた。その〈妄執〉は爛々(らんらん)と光るふたつの眼で五人の若者達を見据えた。石崎が口を開くのに合わせて、その〈妄執〉は牙の並んだ巨大な顎を威嚇の形に開いた。石崎は五人の若者を呑み込もうとするかのように声を上げて言った。
「〈愛〉の権化なのだ!」
ギャウオオオォォ――――ン! 〈妄執〉は咆哮(ほうこう)し、その部屋の壁をビリビリと震わせた。本当は、近くで手榴弾か何かが炸裂しただけかもしれないが、しかし五人の若者は決してそうは感じなかった。
「あの……」と一文字。「おっしゃることはわかりました。わからないけどわかりました。けど、何が言いたいんです?」
「フッフッフ」
笑った。もう、ついさっきまでのただのおっさんの顔ではなかった。不屈の闘志であらゆる逆境を乗り越える炎の独裁者がニタニタと不敵な笑みを浮かべている。五人の若者は、全身に鳥肌を立てて怪物の再生を見ていた。石崎和昭。この男は、まさにクマムシかプラナリアだった。殺して死なない変なダイハード生物だった。
「わたしは勝つ」石崎は言った。「何があろうと絶対に勝つ」
「はあ」と一文字。「おやじさん……」
言った途端に石崎は、酒瓶で一文字の頭を殴りつけた。ぱぐしゃあっ!と言うような音と共に、瓶が割れてガラスの破片と、今の地球で貴重このうえない高級ブランデーが飛び散る。
「馴れ馴れしい口を利くな! そのようにわたしを呼ぶのは十年早い! 〈一文字ハンドレッド〉になって出直してこい!」
「パ……」とユリ子が言った。「パパ」
「なんだ」
「急にどうしちゃったの? 『心に棚』ってなんのことか……」
「フッフッフ。わたしには見える」
石崎は言った。五人の若者を眺めやり、
「ここに六人の若者がいるのが見える」
「六人?」言って五人は互いの顔を見合わせた。
「そうだ、六人だ。赤・青・黄色・緑・ピンク……」
「ええ」と一同。
「そして〈透明〉だ」石崎は言った。「ここにもうひとり、透明な六人目の若者がいるのがわたしには見える」
作品名:敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女 作家名:島田信之