Green Hills 第8幕 「夏灯」
ラッシュガードの上からわき腹をごしごしと拭うようにして、シロウはムッとしながら言う。
「っぎゃ!」
アーチャーが動く前に、凛が大学生の顔を踏みつけていた。
「当然でしょ」
ふん、と凛が嘯くと、こく、とアーチャーは頷く。
「あーあ、ほんっと、自由……」
士郎はそんな光景を、苦笑交じりで見ているだけだった。
***
夕凪の海は静かで波の音ばかりが繰り返し聞こえている。
海水浴場の砂浜にはもう誰もいない。忘れ去られた砂像がいくつか波打ち際に残っている。
「夜は花火やりましょ」
と、凛が言い出し、花火の買い出しを命じられた従者二人は、宿から一キロ近く離れた店まで行かされる羽目になり、今、その帰路についていた。
不意にアーチャーが道路から堤防の方へ逸れて行くので、シロウも黙って続いた。近道なのかな、と思いつつ堤防を越えて階段を下りると、昼間遊んだ砂浜だ。
「誰もいない」
「ああ」
昼間はあんなに人がいたのに、とシロウは呟く。
「セイバー」
差し伸べられた手に、ためらうことなくシロウは手を伸ばす。
握られる手の温かさがうれしいと思うのは、自分がどこか浮かれているせいなのか、とシロウは夕陽に照らされる頬が熱くて仕方がないのを感じていた。
手を引かれるように砂浜を歩く。俯いたままのシロウには砂と繋いだ手とアーチャーの足が見えるだけ。
「わ、っ」
急に足を止めたアーチャーの肩に額をぶつけ、シロウはムッとしてアーチャーを見上げる。
「なんで、急に――」
文句を言おうとしていた口は、そのまま動かなくなった。
海の果てを見つめる鈍色の瞳が茜色を映している。
その横顔に表情というものはない。笑うでもなく、ただ真摯に沈みゆく太陽を見つめている。
「アーチャー……?」
不安になってシロウは呼ぶ。こちらを向いたアーチャーが、やや目を丸くしてから目尻を下げた。
繋いだ手を引き寄せられ、アーチャーの腕の中でキスを受け取る。
「どうした?」
間近の鈍色の瞳は真っ直ぐにシロウを見つめている。
「なんでも、ない。少し、だけ……」
シロウも何を不安に思ったのかなどわからない。ただ、アーチャーの前の横顔は、あの地獄の中での横顔を思い出させた。
「少しだけ、傍に、いてほしいと、思った、だけ……」
アーチャーの胸元のシャツを握って、その肩に顔を埋めて、シロウはそんなふうに答えた。
あんな顔をするのなら、夕陽なんて見ないでほしいと、シロウはもう僅かに残った太陽に目を向けて、そんなことを考えていた。
「凛、どこでそんな物を……」
アーチャーが呆気に取られて呟く。
花火を買い出しに行かされた二人は、部屋の座卓に広げられた物にいささか衝撃を受けた。
「どこでって、宿の女将さんからいただいたの」
「それは、いつ……」
「あなたたちが出ていってからねー」
「ならば、伝えてくれればいいだろう、マスター。往復で二時間はかかったぞ。セイバーは魔力も消費して――」
「楽しかったでしょ?」
「っ……」
言葉を失うアーチャーに、凛はにんまりと笑う。
「ね、セイバー?」
矛先を変えた凛は、シロウに同意を求める。
「う、ぅ――」
素直に頷いてしまいそうなシロウの口を塞ぎ、黙っていろと、アーチャーは目で訴える。
「何よぉ、二人で一緒にお買い物できて、楽しかったでしょー」
不貞腐れながら凛は花火を見繕っている。
このマスターは、とアーチャーが頭痛を覚える横で、シロウはキョロキョロと部屋を見回す。
「セイバー、どうした?」
「士郎は?」
部屋にいない士郎に気づいたのか、座卓で花火を物色している凛の正面に座って訊く。
「宿の人のお手伝い。急病らしいわ。これは、そのお礼」
「え?」
花火から目を離さずに凛は淡々と説明する。
「バカなのかしら、こんなところまで来て人助けなんて」
「馬鹿だな」
「バカだなー」
「バカよね」
三者、意見が揃ったところで、凛が見繕った花火を袋に詰めはじめる。
「そろそろ夕食ね。花火は食後ってことで。あ、これ……」
打ち上げ花火を手に取り、凛は、にやり、と表情を歪めた。
「これで士郎を撃てるわね……」
その呟きは聞かなかったことにする従者たちだった。
「そりゃあ一人残されたりしたら、遠坂だって怒るよな」
浜辺で花火の後片付けをしながらシロウは呆れた声で言う。
「当然の報いだな」
花火をする間、常に士郎は凛の攻撃対象だった。
手持ち花火の火が点けば即、士郎に向ける。ロケット花火は全て士郎にロックオン。そして本来手に持つ用途ではない打ち上げ花火で撃たれる始末。それにガンド撃ちが混じっていたのは、見なかったことにしようと従者たちの見解。
一方的に士郎が悪いのは、誰の目にも明らかだった。理由や経緯がどうであれ、誘っておいて、ひとりにするなど、もっての外だと誰しも意見は一致するだろう。
逃げる士郎を追いかけ、宿の方へ向かった主たちを苦笑いで見送り、飛んでいったロケット花火の残骸を回収し、燃えカスと火の始末をしたところで、袋の底に残っていた線香花火をシロウが発見した。
「残ってた」
アーチャーを見上げ、線香花火の一束を見せる。
「残しておいても仕方がないな、やってしまえ」
使い捨てライターをシロウに渡す。
しゃがんで線香花火に火をつけるシロウを見つめていたアーチャーは、やがて夜空へと目を向けた。
月が昇っていた。
海を青い光が照らしている。海面は波立っていて、ゆらゆらと青い光が揺れている。
ジッ、ジッ、と線香花火が爆ぜる小さな音と波の音だけがある。
「俺は……見ないでほしいと思った……」
不意に静けさを破ったシロウの声に、アーチャーはその赤銅を見下ろす。
「夕方……、ここで、夕陽を見ていたあんたに……」
線香花火は終わってしまったのか、シロウはしゃがんだまま膝を抱えている。
そっとその髪に触れると、夕方と同じような不安げな顔でシロウはアーチャーを見上げる。
「何を見ていたわけでもない」
腕を引いて立たされ、抱き寄せられたシロウはアーチャーの肩に顔を埋める。
「ただ、あの色は、どこで見ても同じなのだと思っていただけだ」
それがどういう意味なのか、シロウにわからないはずがない。
アーチャーが今まで見てきた夕陽は、いつの時代でも、どこの場所でも、血と後悔しかない赤い太陽であって、その鈍色の瞳が見つめるのは、変わらない苦しみとともに在る色で。
だから夕陽を見るとアーチャーが何を思っているわけではなくても、その顔にはどうしようもない苦しさが、本人さえ気づかない痛みが表れる。
アーチャーの背中に腕を回す。その背中のシャツを握りしめる。まるでどこかに行ってしまうのを引き留めるように。
「夕陽なんかより、俺を見ていてほしいんだ」
「っ……」
「あんな色より……俺を……」
シロウの髪を撫で、アーチャーは、苦虫でも噛み潰したように顔を歪めた。
「ああ。そうすることにしよう」
気づかせてしまったのか、とアーチャーは瞼を閉じる。そんなくだらないことを、こんな些末事を、気づかせてしまった心苦しさにため息をつきたくなる。
作品名:Green Hills 第8幕 「夏灯」 作家名:さやけ