Quantum
「――――っ……ここは……」
少しの間、微睡んでいただけかとシャカは思ったが、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「夕暮れ……いや、夜明けか?」
澄んだ空気のそれは明ける前の薄明り。夜明け前なのだということに気付く。すっかり時間の感覚が喪失していた。
遠退く意識の前はまだ日の高い時間であったはずで、自分は確かに古い寺院にいたはずだったのだ。だが……とゆっくり瞳を開いて辺りを見回す。見覚えのあるペイズリーの柄の掛布。ここはシャカの知る場所だ。
インドにいくつか所有する小さな邸の一つで、使用人など一切置いていないシャカだけが一人で特別に過ごしたいと思う時に訪れる一番馴染み深い邸だ。そしてシャカの私室である寝台の上なのだとようやく認識できた。
古い寺院からは割合に近い距離にあったこの邸。律儀にもサガは運んでくれたらしい。というより、よくサガがこの邸の所在を知っていたなと驚く。そういえば他の場所にも訪れて、シャカを探していたとか言っていたような……。
偽教皇時代にでも把握していたのだろうか?と不意に思うが、取るに足りないことだと、まだ残る痺れに顔を顰めながらシャカは思った。
ぼんやりと薄い膜が張ったような夢現のようなおぼろげな記憶を辿るが、どうやってここに運ばれたのかさえ記憶にない。ひどく熱に浮かされたことは覚えていても、それ以上のことが思い出せないのだ。
結局思い出すことを諦めたシャカは痺れ具合を確かめながら、ゆっくりと寝台から足を降ろした。太腿の傷付近から発する、痺れたような熱をもったような気持ちの悪さに顔を歪めた。ただ全身を覆っていた熱はスッキリと引いたような、気怠いながらも爽快さも感じていた。そこでようやくアイオロスから受けた傷はそのまま放置していたことを思い出して、手で触れる。
「……?」
違和感を覚え、裾をたくし上げると傷は綺麗に処置を施されたあとだった。それだけではない。サガに会った時とは違う服になっていた。貫頭衣のような単純な服で寝間着替わりに着ることのあるものだ。何故着替えているのか。きっと熱のせいで汗でも掻いたために着替えたのだろうが、問題は――。
「………だれが、一体……」
誰が、などと考えたところで、此処には使用人などいないので、該当するものは一人しかいない。すっかり世話をかけてしまったようである。性質の悪い冗談だと少し立ちくらみ、ふらつきながらも部屋を出てそのまま中庭に面した廊下へと向かう。
夜明け前の淡い青色の光に染まりながら、僅かに外気が冷えていた。ほどなくして人影を見つけ、さっと瞬間的に顔が熱く感じたがきっと気のせいだ。そう、まったくもって気のせいである。
「―――サガ」
一体いつからそうやっていたのだろうか。薄い闇がまだ覆う中で、ぼんやりと中庭にある池やさわさわと風の音だけを告げる緑を茂らせた樹木を眺めていたサガ。いくらシャカの邸といえども、珍しいくらい、いや、有り得ないほど無防備で放心しているようなサガの姿にシャカは苦笑すら浮かべた。
「え?あ……ああ、目が覚めたのか、シャカ」
吃驚したようにぴくりとサガは身体を揺らしてから、シャカのほうに向きなおった。そして草臥れた腰掛から反動をつけ、サガは立ち上がるとそのままシャカへと近づいた。
「ああ……ようやく……どれらい眠っていたのかね、私は」
「そうだな――昨日の昼過ぎぐらいからだから……軽く10時間以上だな。もう、具合はいいのか」
スッと自然に伸ばされたサガの指先がシャカの顎に触れる。具合を確かめるようにシャカの顎を捕らえ、顔を上向かせていた。あまりにも自然な動きだったから、シャカも為すがままにされていたが、少し経ってからハッとして戯れに過ぎるその手から離れた。
「君のおかげで。それより、その……悪かったな。色々世話をかけたらしい。傷の手当までしてくれたみたいで」
「え……あ、ああ……そう、だな」
何故だか歯切れ悪く、一瞬、気まずそうに笑んだサガは「いや、大した傷ではなくてよかった」と手を引っ込める。なんともいえない空気が漂う。なんなのだろう、この微妙な雰囲気は。シャカは居た堪れなくて焦るように話題を変える。
「ところで、結局、聖域に戻っていないところをみると余程大切な用事があったのかね?」
「ああ――そういえばそうだったな」
サガはホッとしたような、それでいてどこか残念そうな不思議な表情を一瞬だけ垣間見せた気がするが何事もないように、いつも通り低く通る声でサガは続けた。
「じつは試しの君が……あ、私は例の賊のことをそう呼んでいるのだが、そのことでシャカにも伝えておきたいことがあったんだ」
「ほう、何かあったのかね」
うすらとぼけるのにも苦労しながら、薄い光が広がり始めた廊下から、客間と呼ぶには狭すぎるがある程度体裁の整った一室へと移動する。互いに向かい合うような形で長椅子に身を委ねながらサガの話に耳を傾ける。
「シュラに続いて、ムウもやられた。そして、残るのは私とアイオロス、リア兄弟とおまえだと伝えようと思ったのだが――まさか、おまえがすでに遭遇していたとは」
「まぁ、私はまだ応戦可能だが。そうか……ムウもかね」
知っているが知らぬふりで答える。心苦しいことだった。そんなシャカの気持ちなど知る由もないサガはいつものように穏やかに話を続けている。
「ああ。思った以上に奴は手練れだのようだ。シャカ、おまえに傷まで負わせるとは。恐らく用意周到に……綿密な計画を練っていたのだろう。他の黄金の者たちをも下しているのだから、その力量は侮れないと思う」
サガは一度瞳を伏せて、厳しい眼差しを宿す。眉間にひとつ皺を寄せ、わずかな怒気を孕ませていた。
「君にしてそう云わせしめるのだとすれば、私も用心せねばなるまいな……」
自分で言っておきながら、本当に白々しいものだと内心で毒吐く。
「そこでだ。一応、アイオロスにも注意すべきと声をかけようとしたのだが、あいつはサッサと出掛けてしまって声を掛ける間もなかった。だから、せめておまえだけにでも伝えておこうと思って足を運んだというわけだ」
「それはわざわざ済まなかった。アイオロスはダメだとしても、アイオリアには――」
と、そこまで言いかけてシャカは口を噤んだ。サガの視線が下がり、そしてサガ自身の膝へと落ちていった。