冒険の書をあなたに
丁寧に施された化粧が崩れてしまいそうで──口紅はすっかり取れてしまっていたが──ルヴァは躊躇いながら指先で彼女の輪郭をなぞる。
潮風がシルクのヴェールをはためかせる中、彼は改めてじっとアンジェリークの姿を見つめた。
「……今日のあなたは本当に綺麗です」
あちこち引き攣れていた神鳥女王のドレスは、リュカの指示通りに清楚なものへと生まれ変わっている。
勿論惚れた欲目もあるだろうが、彼女の威厳と相まってため息が出るほど神々しい。
行きずりの自分たちのために、限られた時間で精一杯の力を尽くしてくれた多くの人々へどれだけ感謝をしてもし足りない。
アンジェリークが自分の衣装へと視線を落とした。
「わたしのドレスがこんなに綺麗になってるなんて思わなかったわ。グランバニアのお針子さんたちって腕が良いのね」
「マーサ前王妃が輿入れの際にエルヘブンより連れてきた方もいらっしゃるそうですよ。詩篇集の表紙の刺繍も良い手仕事でしたよねー」
実はそのエルヘブン出身のお針子に、アンジェリークの手刺繍についてあれこれと質問攻めに遭っていた。
「着てみたらサイズもぴったりだったの。でもそれより驚いたのはルヴァのタキシードよ。いつ作り始めたのかしら」
「あー、それはですね。私と背格好の似た兵士の方がいましてねー、それで彼の礼服の型紙を流用したんだそうで……」
そしてルヴァも細かく採寸されて、そこから更に型紙が修正されていったのだった。
「そうよね。リュカさんだったら筋骨隆々すぎるし、サンチョさんだと縦横全部合わないものね」
アンジェリークの身も蓋もない言い方に苦笑しながら、ええ、と頷いた。
「エルヘブンであなたが歌を覚えている間に山奥の村に行ってこのヴェールを注文したんです。そのときにグランバニアにも寄って、タキシードとドレスの件もリュカが指示を出していました」
「それにしたって凄いと思うわ……それに、とっても似合ってて素敵」
忘我の表情を浮かべてアンジェリークがはにかむ。
お洒落というものにさほど強い興味のないルヴァにとって、アンジェリークからのこの手の賞賛はくすぐったくもあり、素直に嬉しくもあった。
「ありがとう、アンジェ。あ……あの、段々落ち着かなくなってきちゃったんで……そろそろ着替えませんか」
彼女に褒められるのは勿論嬉しいが、潤んだ瞳に見つめられればやはり気恥ずかしくなってくる。
「……照れちゃって。いいわ、ちょっと浜辺で遊びたいし」
赤くなりそわそわと落ち着きをなくして頬を掻いている彼へアンジェリークはふふと笑って手を差し出して、来た道を戻り始めた。
二人は修道院の二階を借りて着替えることにしたものの、シルクのヴェールを外したところでアンジェリークが困った様子で立ち竦む。
「アンジェ? どうしたんですかー」
頬を染めてウロウロと視線をあちこちに彷徨わせ、何か言いたげに口をぱくぱくさせてはいるものの声にならない。
訳が分からない、といったふうでルヴァが小首を傾げた。
「あ……あのね、あのっ……一人じゃ、これ、脱げなくてっ……シスターにお願いしてこなくちゃ……」
ファスナーというものがまだ存在していない世界のようで、背面にびっしりと並んだホックの数々。
「あー……確かにこれは一人では無理ですね。私が外しますからどうぞそのままで」
そう言ってルヴァは近付いてホックを外し始めた。瞬時にアンジェリークの耳どころか首までが赤くなっていく。
「え、や、あのいいのっ、わたしがお願いしてくるから……!」
微かにルヴァの指先が掠めるたびにアンジェリークがいちいち身じろぐので、出来る限り意識しないように事務的に、淡々と外していく。
「じっとしてて下さい。あんまり可愛く恥じらわれるとこちらもちょっと辛いです」
ホックが外れていく毎にアンジェリークの綺麗な背と下着があらわになれば妙な気分にもなってしまう────ましてやこの世界では新婚夫婦なのだ。
「ご、ごめんなさい……こういうの、なんか恥ずかしいの……っ、ん」
ルヴァの腕がするりとアンジェリークの腰に絡みつき、ぐいと引き寄せると背後から唇を奪った。
そして階下の修道女たちに聞こえないように耳元で囁く。
「辛いと言っているでしょう? そうやってこれ以上私を煽るようなら、アルカパまで直行しますが……」
アンジェリークの反応次第では本当に直行するつもりだった。だが当の本人は蕩けた顔をしながらもふるふると首を振る。
「おなかすいたし、ルヴァとデートしたいから……もうちょっと待って」
「デート」よりも先に空腹を訴えるアンジェリーク。何を差し置いても空腹には勝てないことを知っているルヴァはくすりと微笑んだ。
「サンチョ殿の特製ランチが待っていますしねー。もうすぐ全部外れますから待ってて下さい」
そうして別の意味で苦労して着替え終わると、ドレスとタキシードをできる限り皺にならないように畳んでトランクに詰め込んだ。
だが大きめのトランクでも中を空にしてようやくギリギリ入ったため、確実に皺はついてしまうだろう。
「やっぱりぎゅうぎゅうになっちゃう……」
アンジェリークのしょんぼりとした声を励ますようにルヴァが穏やかな笑みで答える。
「服の皺は聖地に戻ればすぐに直せると思いますよー、オリヴィエに相談しましょう」
それから修道女たちに丁寧にお礼を述べて、トランクと魔法の絨毯をルヴァが持ち、二本の杖とバスケットはアンジェリークが手に持って再び外へと繰り出した。