冒険の書をあなたに
アルカパの宿に戻ると、胸元を大きく斬られ血だらけになったルヴァの姿にオーナー夫妻が絶句していた。
「ただ今戻りました。無事に妻を連れ帰ってきましたので、お部屋で休ませて下さいねー」
疲れた様子を見せながらも穏やかに隣のアンジェリークを見つめるルヴァに、夫妻が頭を下げた。
「この度は……大変申し訳ございませんでした……!」
本来であればこの程度の謝罪で済まされる話ではない。縁もゆかりもない宿泊客を売ったのだから。
下手をすればあのままアンジェリークが殺害されていた可能性だってあったのだ。それでもこうして無事に取り戻すことができた以上、ルヴァは彼らを責める気にはなれなかった。それは彼の優しさからでもあったし、おおごとにすればするほど煩雑な事象に時間を取られてしまう。明日には再び女王といち守護聖に戻らなければならないというのに、そんなくだらない時間の浪費はしたくないという理由も関係していた。
「いいんですよ、こうして無事に戻れましたから……でも、もう二度とああいうことはしないで下さいね」
主人が涙目で頷きながら口を開く。
「あの……もし宜しければ、ご夕食はいかがですか。着替えもすぐに用意させて頂きますので」
夕食の時間としてはかなり遅くなってしまったが、ルヴァは一度要らないと言ってしまったものの、二人とも空腹だったのでその申し出をありがたく受けることにした。
こういった宿では夕食時間は割と早い。遅くなった場合は外で済ませるのが常だが、この騒動への謝罪もこめてのことなのだろう。
アンジェリークが嬉しそうにぽんと両手を打ち合わせた。
「良かったー。ここのお料理が美味しいって聞いてたんで、本当は楽しみにしてたんです。遅い時間なのにごめんなさいね」
騒動に巻き込まれたというのに笑顔で夫妻を気遣うアンジェリークに、ひれ伏す勢いで夫妻が更に頭を下げる。
「い、いえ! 私どもがご迷惑をお掛けしたんです。これぐらいのお詫びはさせて下さい、お願いします」
主人の言葉の後に続いて、女将が続けた。
「二階のテラス席にお運び致しますので、それまでごゆっくりお寛ぎ下さい。着替えもすぐにお持ちします」
アンジェリークの背をそっと促して三階の部屋へと戻った。
辺りを見回すと置いていた荷物などに異常はなく、ルヴァが出て行ったときのままだ。
アンジェリークが慌てた様子で部屋に置かれたグラスに水を注ぎ、結婚式で使われたジャスミンのブーケを挿した。
「ブーケ、宮殿まで頑張って持って帰るの。……ね、なんでジャスミンにしたのか、聞いてもいい?」
あの結婚式の前日、ブーケ用の花を選ぶためにリュカと立ち寄った花屋で、溢れんばかりの花々の中にひっそりと埋もれていたジャスミン。この世界にもあるのだと驚いて、そして即決であれにしようと思ったのだ────語源は「神からの贈り物」を由来とする花の王を。
「あなたが……私にとっての贈り物だからですよ。それに……」
最初からブーケを持たせておく話だったのに、実際にはビアンカの助言によって祭壇前で手渡すように変えられていた。
「片手が塞がった状態で階段は危険だし、ルヴァさんから手渡されたほうがきっといい思い出になるから」────リュカ経由で花言葉や名前の由来を知ったらしい彼女からの助言だった。
きょとんと不思議そうな顔のアンジェリークへ、そっと耳打ちする。
「You are cheerful and graceful────あなたは朗らかで気品がある、という意味があります」
花言葉の通り、朗らかで気品のあるアンジェリークにぴったりだと────そう思えたから。