冒険の書をあなたに
それからすぐにコンコンとノックの音がして、廊下には女将が立っていた。
「失礼致します。着替えをお持ちしました」
ルヴァに手渡された新品の服はシンプルな布の服だったが、血だらけの服よりはずっといい。
「ありがとうございます、こんな状態で着替えがなくてどうしようかと思っていたところで……助かります」
そう言ってぺこりと頭を下げるルヴァ。
「それと、こちらはアルカパの名産品、安眠枕をリピーターの方に差し上げているのですが、良かったらお使い下さい」
アンジェリークが枕に鼻を近づけて、ふんふんと香りを嗅いでいた。
「いい香り〜。女将さん、これは何のハーブですか」
もふもふと枕に頬をつけながら幸せそうな笑みを浮かべている。そんなアンジェリークの表情に女将も安堵したような顔を見せた。
「こちらは当宿の無農薬葡萄の葉を使っています。料理にも使われておりますよ」
「えー葡萄の葉っぱってお料理にも使えるんですか? 知らなかったー、実しか使えないんだと思ってました」
ルヴァももふもふと枕に顔を埋めて香りを嗅いでみる────どことなく柏餅が食べたくなる香りだ。
「食べるというよりは具を包むのに使われていますよ。あとでお出ししますので、もう少々お待ち下さいね」
「はい、楽しみにしています! じゃあ先にお風呂頂きますね」
まるで何事もなかったかのようなアンジェリークの態度に、これまでぎこちなかった女将の表情にもようやく笑みが戻り、失礼致しますと下がっていく姿を二人で見送った。
接する人々との間に何があろうと、その心に禍根を残さないでいられるというのは、人としてとても素晴らしいスキルだとルヴァは思う。それは常々強い心でいなくては為し得ないことなのだ。
「本当に……あなたという人は」
眩しそうに目を細めて、未だにもふもふと枕に顔を押し付けて楽しんでいる彼女の柔らかな髪に口付けた。
葡萄の香りの枕に顔を押し当てたまま、翠のまなざしはルヴァを優しく見つめている。
「ルヴァ、先にお風呂行って来て。着替えたほうがいいわ」
傷口自体は塞がっているとはいえ、袈裟懸けに斬られた形のままだ。
「そうですかー? では、お言葉に甘えてお先に頂いてきますね。ありがとう」
乾いて張り付いた血の感覚が気持ち悪かったため、アンジェリークの気遣いが有難かった。
二階に下りると衝立の向こうに猫足の浴槽があった。
コックを捻りシャワーの湯を浴びた途端、ルヴァの足元を真っ赤に染まった湯が流れ去っていく。
今日は二度も大きな怪我をして、傷口そのものはすぐに回復できたものの、体から多くの血液が失われたことに違いはない。
(なんとなくふらつく感じがしているのは、そのせいなんでしょうか……とにかく、アンジェが無事で良かった)
ざあざあと流れ落ちる湯をぼんやりと見つめながら、ルヴァは束の間の物思いに耽った。