冒険の書をあなたに
そして、遂に一体のネクロマンサーが動いた。翳された手から黒い光が溢れ出す。
「────マホトーン」
リュカとティミー、ピエールは襲い掛かる黒い光をその場で薙ぎ払ったものの、ポピーとルヴァが払い切れずに禍々しい光に包まれ、苦しげに首元を押さえている。
ルヴァの額に浮いた汗が瞬く間に玉になっていく。ポピーは険しい顔をしながらも肩で息をしていたのを目の当たりにしたアンジェリークが叫んだ。
「……ルヴァ!? ポピーちゃん、大丈夫!?」
小さく頷くポピーが手の甲で額の汗を拭っている。ルヴァはできる限り平静を装ってアンジェリークに微笑みを向けた。
「え、ええ……一瞬呼吸ができなくなりましたが……今はなんともありません。どうやら呪文を封じられてしまったようです」
マホトーン────魔封じ、つまり言葉に魔力が乗らない状態になる呪文だと魔術書には書かれていた。
もう一体のネクロマンサーがニイ、と嫌な笑みを浮かべた。
アンジェリークが次は何をしてくるのかと目を凝らしたとき、足首にべたりと纏わりつく冷たい感触に視線を落とし、悲鳴を上げた。
「いやああああああああああ!!!」
地面から伸びた干からびた手が、がっしりとアンジェリークの足首を掴んでいた。
ピエールが即座に足首を掴んでいる手を切り離し、がちがちと歯の根の合わない彼女を助け起こす。
「天使様、お気を確かに。彼らはゾンビナイトと呼ばれる魔物ですが、元々は人間だった亡者たちです」
見れば周辺を囲むように地面から幾本もの腕が伸びてきて、徐々にその姿を現し始める。
黄金の鎧冑に槍を持つゾンビナイトは片方の目玉をぼろりと垂れ落とし、腐臭を振り撒き、既に人としての姿は朽ちている。
その恐ろしくも哀れな姿に、ルヴァは同情を禁じ得ない。
「かつてこの神殿を守っていた兵士たちの成れの果て、なんでしょうかね────安らかに眠ることすら許されず、こうして生きているとは決して言えない状態で幾度も呼び戻されるとは、なんと惨いことを……」
生きとし生けるものは皆いつか眠りにつき土くれへと還る、それが命の本来あるべき姿ではないのか────そんな想いが沸々と湧き上がってくる。
「アンジェ、何も怖がる必要はありませんよ。現在は一応聖獣の女王陛下のお膝元にいる住所不定のあの人が、かつて私たち守護聖の血を使ってやったことだってこれと似たようなことです。そこにどれだけの信条信念があろうとも、やったことは死者への冒涜ですからね」
皮肉を通り越して猛毒を含んだ容赦ない言いっぷりに、アンジェリークが引きつった顔を向ける。
「あの……ルヴァ……あの人になんか嫌なことでもされたの……?」
嫌なことも何も彼からすれば愛しい恋人を散々苦しめた存在なのだが、アンジェリーク自身はどうにもその辺りの機微に疎い。
「……理由がどうであれ、生命を弄ぶのを良しとしないだけですよ」
この話について詳細を語るつもりはないため、そのまま理力の杖を構えて戦闘体制に入るルヴァ。
複数のゾンビナイトがルヴァとアンジェリークを目掛けて研ぎ澄まされた鋭い槍で突いてきた。
リュカたちよりも妙に集中攻撃をされているのは、二人の持つ魔力の大きさに引き寄せられているせいだ。
既に呪文を封じられているため手を重ねる必要がないと判断したルヴァがアンジェリークを思い切り後方へと突き飛ばし、ゾンビナイトの群れから遠ざけた。
「プックル、アンジェをお願いします!」
ルヴァの声が届くか届かないかの内にプックルがアンジェリークの前へ飛び出し、ついでにゾンビナイトに一撃を与えていく。
次々と繰り出される槍の猛攻撃を必死でかわして、やがてルヴァは少しずつ仲間から離され始めた。
少し先ではリュカ一家がネクロマンサーと戦っているのが視界に入った。プックルはアンジェリークを守りながらの戦闘ゆえその場を離れることができず、襲い掛かってくる敵の攻撃を威嚇しながら跳ね除けるのが関の山だ。
(まずいですね……私だけ段々遠ざけられているようです)
理力の杖を構える隙もない猛攻に徐々にルヴァの息が上がり、槍を避ける速度が露骨に落ちてきた。
そして最初に腕、次に足へと槍がかすめて服を裂いた。異様な灼熱感に顔をしかめる。
(身を裂いた痛み、だけじゃない……? まさかこれは……)
その答えは時を待たずして訪れた────全身がしびれ始め、それから呼吸が乱れてきた。
(やはり、槍に毒が……!)
急激な吐き気、寒気も立て続けに起こり、ルヴァの視界が霞んでいく。
毒と一口に言っても嘔吐や腹痛程度の症状から血液の凝固を阻害するものなど多種多様あるが、ルヴァが受けた毒は出血毒、神経毒両方の特徴を併せ持っていた。
(霞み目に脱力感、吐き気に寒気に口腔内の痛みによる発話・嚥下困難。恐らくは出血毒も含まれているのでしょうし……毒消しが間に合わなければこのまま……終わり、ですね)
まともに動くことすらできずに倒れ込んだところをゾンビナイトたちに囲まれ、混濁してきた意識が目覚めるほどの鋭い痛みが幾度も彼を襲った。
その様子を見たプックルが吼える。
「おいまずいぞ、賢者が毒にやられた! リュカ、毒消し草出してくれ! ……リュカ!?」
見れば先程よりも敵の数が一段と多くなっていた。まだ余裕はあるものの次々と現れる敵をなぎ倒すのに手間取っている。毒を中和させる呪文、キアリーを唱えられるピエールも敵に囲まれてそちらに手一杯の様子が伺えた。
「ピエールもあれじゃこっちに来るのは無理か……天使よ、まずは杖を掲げて賢者の傷を治してやれ。ここからでも届くから」
しかしアンジェリークは唇を引き結んだまま、ルヴァを取り囲むゾンビナイトたちを睨み、早口で言葉を紡ぐ。
「ねえプックル、わたしをルヴァのところまで連れて行って頂戴」
「それより回復が先……」
「移動しながらできるわ。お願い、急いで」
言いかけたプックルをぴしゃりと跳ね除けた。その声に宿る威厳に酷く驚くプックル。
「おっかねーな、分かったよ。横座りはするな、しっかり内股に力を入れておれのたてがみを掴めよ。全速力で行く」
「分かったわ」
走って駆けつけるよりも、プックルの俊足に頼るほうが早く安全────アンジェリークの咄嗟の判断だった。
すぐさまプックルの背にひらりと跨り、上半身を低く保った。祝福の杖を左手に持ち、より力の入る右手で彼のたてがみをしっかりと掴む。
「行くぞ、落ちるなよ!」
風と同化するかのような勢いでぐんと景色が動いた。
意識を集中させたアンジェリークの翼が大きく広がり、それと連動して杖の宝玉が青く燦然と輝きを放つ。
その青い光はルヴァへと真っ直ぐに伸び、既に血溜まりの中央でぐったりと動かなくなっている彼の身を包んだ。