冒険の書をあなたに
アンジェリークが目を覚ましたのは、大地を這う美しき薄明が星々を押し上げてゆっくりと夜と朝とを隔てていく頃。
隅なく愛されて少々気だるい身体とは対照的に、胸のつかえはすっかりと取れた気がする。
隣で静かな寝息を立てるルヴァを起こさないようにそっと寝台から抜け出して、窓辺から白み始めた空をぼうっと眺めていた。やがて室内のきりりと冷えた空気に身震いをしたとき、背後でふにゃお、という変な鳴き声に思わず振り返った。
「んんー……やめて下さいぃ……くすぐったい……」
何やらうわ言を呟きつつもぞもぞとシーツの中へと潜り込んでいくルヴァの傍らで、どこからやってきたのか丸っこい生き物が座り込んでいた。
それは全くメリハリのない胴体に青灰色の縞模様のある、手足の短い猫だった。その奇妙な猫はまだ子猫のようでとても小さかったが、異様に長い舌を持っていた。
今はざりざりと音を立ててルヴァの髪を執拗に舐めている。
「あら困ったネコちゃんね。こっちにいらっしゃい、起こさないであげて」
アンジェリークが小さく声をかけると、その猫はふにい、とやや情けないぼやけた声で返事をして近寄ってきたので、そっと抱き上げるとすぐに喉を鳴らし始めた。この猫も魔物と呼ばれているものなんだろうが、ドラきちのようなお喋りは聞こえてこなかった。
それから彼が目覚めるまでの数時間、アンジェリークは縞模様の猫を抱きルヴァの懐へと滑り込んで瞼を閉じた。
数時間後、目を覚ましたルヴァは酷く生臭い匂いに顔をしかめていた。
しかも何だかくすぐったい。アンジェリークの金の髪もふわふわとくすぐったいが、勿論こんな匂いはしていない。ぶふふ、ぶふふと妙な音も聞こえてくる。
一体これは何なんだろうとうっすら目を開けた……目の前には間の抜けたパンダ顔の猫──何故か舌が相当はみ出ていて鋭い牙の数は普通の猫より多い──がこちらを覗き込んでいた。
くすぐったかったのは鼻息とともに揺れる猫のヒゲのせいだったらしい。
「ぅん……? ……あなたはどこから入って来たんですかにゃー?」
うっかり猫語で話しかけると、ふにゃーと返事をした猫がざりざりと鼻を舐めてきた。地味に痛い。そしてヨダレがとても生臭い──何を食べているのかは不明だが、これは餌を変えたほうがいいと思う。
猫の向こうでくすくすと笑う愛おしい人の声がする。
「おはようございまーす。その子はさっきもルヴァの髪の毛を舐めてたにゃー」
頬杖をついてこちらを見つめるその肌には、昨夜の名残が点々と紅く残されていた。
「おはようございます、アンジェ。跡……結構残っちゃってますね」
寝ぼけて猫語を使ってしまったのが照れ臭くて、誤魔化すように話題を変えた。
「つけすぎよ、ルヴァ。これじゃしばらく着る服に困るじゃないの」
苦笑いで文句を言いながらも慈愛のこもったまなざしを向けるアンジェリーク。
「ただの内出血ですからすぐに消えますよー。それに肌を出さずにいて下さったほうが都合がいいので」
子供じみた独占欲、所有欲だとよくよく理解していた。
けれど、ルヴァとしてはどれだけアンジェリークという存在を愛しているか、幾度言葉で伝えようとも、どれだけ愛撫で伝えようとも到底足りることはない。
「さて……このにゃんこに起こされたことですし、そろそろ仕度しましょうかねー」
まるで枕のような猫の寸胴をぽんぽんと叩くと太鼓のように小気味良い音が響き、猫が余りにも情けない声で鳴いたために二人は顔を見合わせて笑った。
朝鳴きの鳥の声が本格的に辺りを賑わせていく。
ねぐらにしている深い森から一斉に飛び立ち、黄金に染まる海と空を抜けて彼らは群れをなし何処かへと向かう。
ルヴァは縞模様の猫にヨダレまみれにされた顔と頭を洗い、シンプルな木綿の長袖──袖口はやや広めになっており、暑いときはたくし上げやすいようになっている──とパンツの上から緑のチュニックを重ね着し腰布で巻き止めたあと、いつものようにターバンを巻きつける。
パンツスタイルのルヴァはより一層すらりとして見え、背が高い印象を与えていた。
「こちらでは動きやすい格好がいいだろうからと、これも昨日用意していただけましてねー。これは夏用ということで丈が短めなんだそうですよ。通気性も良くてなかなか快適です」
アンジェリークはルヴァの足元周りがすっきりとした服装を余り見たことがなかったが、クラシカルな膝上丈のチュニックとパンツ姿はしっくりと彼に馴染んでいて似合っていると思えた。
「さあさあ、あなたも服を着ましょうね。……そのままでいるとまた押し倒しちゃいますよ」
後半を耳元で囁いて、赤面するアンジェリークの頬を挟んで額に口付けた。