冒険の書をあなたに
「……リュカさん」
アンジェリークはそっと振り返り、リュカをじっと見つめた。
「はい」
「あなたにね、聞いて欲しくって、エルヘブンで覚えた歌があるの。今歌わせて貰ってもいいかしら」
リュカの唇が弧を描き、大きくしっかりと頷く。
静かにリュカのほうへと歩み寄り、アンジェリークは息を整えてそっと歌い出した。
嗚呼──眩き夜明けの空輝けり、色は金色(こんじき)の地平の果て目指して
嗚呼──廻りゆく月の船。神の鳥、永久(とこしえ)を抱きあまつみそらを舞う──
両手を組み優しく歌い上げると、ポピーの手の中にあった命のリングとアンジェリークの薬指にある祈りの指輪が鮮烈な輝きを放った。
二つの光はやがて合わさって収束し、一羽の眩い鳥となってふわふわとリュカの周りを飛び回っている。
そしてリュカの表情が驚きに満ち溢れた。
「その歌……ぼく、聴いたことがある……!」
「あなたが赤ちゃんだったときに、マーサさんが歌ってらした子守歌なの」
瞬きに押されて、一筋の涙が彼の頬を伝い落ちた。
「『おおぞらをとぶ』っていう歌よ、詩篇集に載っていたわ……最初はエルヘブンのあの部屋で……たぶん、パパスさんの無事を祈って。リュカさんが生まれてからは、あなたが無事に大きくなるように、祈りをこめて歌ってらしたわ……」
「お義母さま……」
「おばあちゃん……」
ビアンカと子供たちの呟き、そして微かな嗚咽が、静かな空間に響く。
「元々はこの伝説の鳥を呼び出す歌らしいんだけど、何回か回復をしてくれてたからあなた方の役に立てると思うの」
アンジェリークがついと腕を持ち上げると、その手に光の鳥が舞い降りてきた。
余りにも違和感のないその姿を見てルヴァはあることに気がついた。それを確認するために懐から手帳を取り出して、書き留めていた一節を改めて読み返す。
(遠き彼方より来たる天の御使いは、聖なる歌声にて眩き扉を呼び覚まして帰らん。不思議な力を秘めし民より引き継がれし聖なる歌は、神の息吹となり天つみ空を駆け往かん……)
天空城で書き写していた「星空の神秘」の中の一節を、そっと目で追いながら考え込んだ。
(この一節は前半と後半とで別々の歌を示していて、一つの歌を指し示したものではなかったということですね!)
マーサから引き継がれた歌、それは遥か太古の昔に生まれた奇跡の力。
それは次元や時間をも飛び越えて、大いなる慈愛を持つ者だけに脈々と受け継がれていく力なのかも知れない、とルヴァは一つの仮説を立てた。
一度、二度とリュカの口元が何かを言いたげに開いては閉じ、言葉を探しているのかもどかしそうに頭を掻いてからゆっくりと話し出す。
「……ありがとう。母の顔は分からないけど、ぼくの中には確かにあったんですね……微かな記憶が」
小さく頷いたアンジェリークの微笑みが、リュカの心の中を温かく潤していく。
アンジェリークをそっと促して、ルヴァは穏やかなまなざしを向けた。
「さあ……そろそろ私たちも戻らないと。ね、アンジェ」
僅かに口角を上げたリュカも、さすがに寂しそうな顔を隠せない。
「そうですね、ぼくらももう行かなくちゃ。名残惜しいけど、ここで」
女神像の近くにアンジェリークが一人佇んで、そっと目を伏せて両手を組んだ。
間もなく背に翼が現れて、それから静かに歌い出す。
主は来ませり 主は来ませり 御心を紡ぐ調べにたゆたいて
泡沫の羅針盤が如き 在りし日の歌声
時は来たれり 時は来たれり 星空をめぐり果てより来たるもの
潮騒の扉を求むれば 彼方へと帰らん────
高らかに透き通る声が辺りに響き渡った。
歌の最中、エルヘブンで練習したときと同じく、彼女から放たれる淡い光が泡のように次々と生まれて立ち昇っていく。
胸の前で組んだ手を前へとまっすぐに伸ばして掌を上向けた。
それから祈りを捧げるように高々と頭上へ掲げると、両の指先から光の柱が遥か天空を目掛けて迸った。
その光の柱の周りを丸く輝く光が螺旋を描き駆け上り、そのまま光の階段へと姿を変えた。