冒険の書をあなたに
かくして、ルヴァの猛勉強が始まった。
最初はポピーに絵本を数冊分読み聞かせをしてもらい、言葉と単語とをすり合わせていった。そうして一通り頭に入ってきたところで今度は分厚い辞書を借り、文法も含めてどんどん記憶していく。太陽が傾き始めた頃には既にポピーの力を借りることはなく、形のいい唇を一文字に引き結び、ひたすら黙々と本の頁をめくるルヴァの姿があった。
普段の読書の際のリラックスした表情でもなく、聖地絡みのトラブルで調べ物をしているときの緊迫した表情でもない、ただ真摯に取り組むルヴァの端正な横顔に見蕩れ、アンジェリークの胸は高鳴った。
そんな初々しい天使のまなざしの行方に、マーリンが知らず知らずに微笑んでいた。
「いやはや流石は賢者様だのう。恐ろしい速度で記憶しておられるわい……そろそろ喉も渇く頃でしょうかの」
マーリンの言葉にアンジェリークが何かを思いついたようで、そそくさとルイーダの元へと向かう。
「あの……ルイーダさん、蒸したお絞りってありますか。あと何か、疲れの取れるようなお茶が欲しいんです」
「あるわよ、ちょっと待っててね。……彼に?」
ほんのりと笑みを浮かべて頷くアンジェリークを見て、ルイーダの口の端が上がった。
「それなら頭と目がスッキリするのがいいわね」
ルイーダは綺麗に並べられた小瓶を幾つか開けて、ツボクサ、別名ゴツコーラとも呼ばれるハーブを主体に赤葡萄、ベリー類、クコの実など──他にも入れていたが何なのかわからない──を少しずつ皿に取り集め、温めたポットへ放り込んで熱い湯を注ぎ入れ、暫し待つ。
「ツボクサはこの辺りでは薬草にも使われてるの。あっちは傷を治すものだから、もっと苦い草も沢山使われてるんだけどね」
ルイーダはトレイにポットとカップ、クッキーを少々と蒸したおしぼりを載せてアンジェリークに手渡した。
そのトレイを持ったアンジェリークが横に立ったのも気付かずに、ルヴァの視線は真剣に本の文字を追っている。
「ルヴァ、お疲れさまー」
とんとんとルヴァの肩を軽く叩くと、顔を上げて一瞬視線をきょろきょろと彷徨わせてからアンジェリークに気付いて微笑む。
「ああ、アンジェ。一人にしてしまってすみません、退屈ではないですかー」
これが普段であればアンジェリークも横で読書をしていたのだろうが、ここではそういう訳にもいかない。ルヴァはついいつもの癖で時間を忘れて放置してしまったことを申し訳なく思ってアンジェリークの小さな手に指を絡め、アンジェリークがちっとも心配のなさそうな顔でその手を握り返す。
「気にしないで、皆とお喋りしてるから大丈夫よ。それより目が疲れたでしょう? お絞りどうぞ」
広げて少し冷ましたお絞りをルヴァの目の上にそっと乗せた。
「あーこれは、あったかくて気持ちがいいですねー……ありがとうございます」
ルヴァは体を少し椅子に預け、背もたれに首を当てるようにしておとなしく目を温めている。
アンジェリークがその間にハーブティーをカップに注ぎ入れた。
ブレンドした中に干した実が多いせいか、カップから立ち昇る香りはほんのりと甘い。
「はい、ルイーダさん特製ハーブティーとおやつですよー。ちょっと休憩しませんか」
「そうですね、では小休憩にしましょう。……あの、アンジェ」
「はい?」
目に当てていたお絞りをそっと持ち上げて、アンジェリークのほうをちらと見やるルヴァ。
「このお絞りで顔を拭いたら、おじさんって言われちゃいますかね」
「間違いなく言っちゃいますね」
「…………やめておきます」
そこへタイミング良くルイーダがティーセット一式を持ってきて、アンジェリークとポピーの前に置いた。
「はーい、これは女の子たちの分! 蜜はここに置いておくから自由に使ってね。マーリンは薬草酒でいいわよね?」
マーリンに薬草酒のお湯割りを手渡した後、ルイーダの手で美しいルビーレッド色のお茶が注がれ、独特の香りが立ち昇った。
「わたし、酒場ってお酒しかないんだと思ってました。色々置いてらっしゃるんですね、知りませんでした」
アンジェリークの素朴な言葉に、ルイーダの口元が綺麗な弧を描く。
「ほとんどは果実酒や薬草酒に使うんだけどね。お酒が飲める人ばかりじゃないから一応置いておかなくちゃね」
夜勤の兵士たちが交代のときに気軽に立ち寄れるようにしているのだとルイーダは言い、笑顔でカウンターへと戻ってゆく。