冒険の書をあなたに
アンジェリークとポピーはルイーダ特製のハーブティー──ローズヒップとハイビスカス主体に幾つかの風味を感じる──を飲みながら、かしましくお喋りをしていた。マーリンはその向かいで薬草酒を片手に、ルヴァ用に選んできたらしい分厚い本をぱらぱらとめくっている。
ルヴァはそんな周囲の様子に混ざるでもなく、温めたことで一層引き立ってしまった疲れを誤魔化すように目元をぐいぐい押さえて、ハーブティーを口に含んだ。
「ああ、これは……さっぱりとしていて美味しいお茶ですねえ」
誰にともなく呟いて、香りよりもずっと爽やかな味わいのお茶のあとにクッキーを頬張れば、ほろりと柔らかく崩れて仄かな甘さが口の中に広がる。集中しすぎて些か強張っていた体から、ゆるりと余分な力が抜けていくようだ。
(このクッキーも、程好い甘さでとても美味しいですねー。アンジェの作ったものも美味しいですが、こちらもなかなか……)
ティーカップを片手にほっこりと寛いだ表情のルヴァに気付いて、アンジェリークが声をかけた。
「ねえルヴァ、こっちの文字はもう読めるようになったみたいだけど、何か調べもの?」
その言葉に答える前に、美味しいですよ、とアンジェリークの口にクッキーを放り込み、ひととき見詰め合う。
二人の間に僅かに漂うつかの間の甘い空気にあてられ、ポピーが頬を染めて俯いていた。
「ええ、まだ細かい単語を拾いきれていないのでこの辞書で幾つか補完をね。文法はもう大丈夫なのでマーリン殿の本を読むのは明日以降ですかねー」
マーリンが目の前に山と積んだ本をルヴァのほうへと押しやって、グレーの目を優しく細めて微笑んだ。
「それならば全部部屋に持って行かれるといいでしょう。その調子では夜中には読み始めてしまいそうじゃからの」
ルヴァは既に待ち切れなさげな様子で自分のほうへと寄せられた本の頁をめくった。さっと文章を目で追って、小さく頷いている。
「これ全部お部屋に持って行っていいって。良かったわね、ルヴァ」
アンジェリークが通訳をした途端にルヴァの身体の内側からワクワクする気持ちが湧き出でて抑え切れない様子が見て取れた。
「ありがとうございます、できるだけ早くお返ししますね。……アンジェ、そろそろ部屋に戻りましょうか」
分厚い本の山を抱えてルヴァが立ち上がる。アンジェリークは慌てて後を追った。
「え? もういいの、ルヴァ。まだここで調べ物していても……」
言いかけたアンジェリークの耳元で、ルヴァが低く囁いた。
「……あなたと二人きりになりたいんです。いけませんか」
言葉の意味を理解したと同時に、アンジェリークの頬が先程のハーブティーよりも真っ赤に染まった。その横でルヴァが退室の挨拶をしれっと告げている。
「では我々はこれで失礼しますね。また明朝こちらへ伺おうと思うんですが、それでいいでしょうか」
マーリンはひとつ頷いて、ゆっくりとした足取りで他の魔物たちがいる部屋の奥へと帰っていった。
「じゃあわたしもお母さんのお手伝いしてきます。またあとで!」
いつの間にかポピーがティーセットを片付けて、ひらひらと手を振り部屋を出て行った。
その背を見つめながらルヴァが呟く。
「いやー、まだ十歳とは思えないくらいしっかりした子ですねー」
ルヴァが持っている本を数冊受け取りながら、アンジェリークもポピーの背を見つめた。
「そうね。ビアンカさんも王妃様なのに、人任せにすると腕がなまるからって夕食の仕込みはご自分でされてるんですって。ポピーちゃんも結構お手伝いするんだって言ってたわ。わたしも何か手伝いたいって言ったんだけど、断られちゃった」
「王族とはいえ少々複雑な状況だったようですし、家庭らしさを大事にしているのでしょうねー。何でも人に任せっきりにしないところは好感が持てて良いですね」
二人は小さな格子窓から落ちる光のシルエットを眺めつつ、石造りのせいかひやりと冷えた通路を歩き部屋へと戻った。
「本当に切り上げてきて良かったんですか? もうちょっと向こうにいても平気だったのに」
小机の上に運んできた本を置いて、アンジェリークはルヴァのほうへと首を向けた。
「ええ、こうしてお借りしてきたので問題ないですよ。あーでも……あなたは寂しくなっちゃいますかね」
アンジェリークが置いた本の横にルヴァが持ってきた本を積み上げて、後ろから覆い被さるようにアンジェリークを抱き締めた。
「これは一体何の中毒症状なんでしょうかねぇ……あなたに触れたくなるんです。お月さまがとても綺麗なので……」
ルヴァの手がアンジェリークの金の髪をかき上げて、林檎色に火照った耳をそっと食む。
「ち、中毒……っ?」
耳を食まれてますます紅さした頬に、ルヴァの唇が愛しげに啄ばむような口付けを落とす。
「そうですよー。この私が読書をやめてまでも、あなたと二人になりたかったんですから……最早中毒と言っても差し支えないでしょう」
それ程に彼女は魅力的なのだから、これはもう早々に白旗を揚げて諦めるより他はない。
借りてきた本の中から一冊の魔術書を手に取り、そのままルヴァはアンジェリークを促して長椅子へと向かう。右足を膝立てて腰掛け、左の太腿をぽんぽんと叩いた。
「アンジェ、こちらへ」
立てた右膝に本をもたれさせ、アンジェリークに横たわるように誘うと、照れてはにかんだ表情でアンジェリークが太腿を枕にそっと寝そべった。
「ちょっと行儀が悪いんですけどね……あなたに触れていたいし、読書もしたいもので」
左手でふわふわの金の髪を指に絡め、くるくると巻いては解いてを繰り返す。
ゆっくりと髪を梳く温かく大きな手に、アンジェリークはまるで子供の頃に戻った気分になってうとうとし始めた。
「眠たくなってきちゃった……ルヴァの手、あったかくて気持ちいい」
瞼を軽く擦り、ふわあと大きな欠伸をするアンジェリークを、穏やかなまなざしが見守る。
「寝ちゃってもいいですよ。私も、こうしているととても落ち着きます」
ルヴァとしては少し騒がしかったルイーダの酒場より、この部屋でアンジェリークと二人でいるほうが静かで好ましい時間と言えた。
やがて左腿がずしりと重くなった。力の抜けたアンジェリークから静かな寝息が立ち、それからルヴァは鬼気迫る集中力で一気に魔術書を読み耽った。
その一冊を程なくして読み終え、傍らで眠るアンジェリークを夕食の時間までは寝かせてあげようと、そっと横抱きにして寝台へと運ぶ。
(この世界にどういう種類の呪文があるのかは分かりました。あとはとにかく実践あるのみ。習うより慣れろ、ですね)
ルヴァはアンジェリークの寝顔を暫し見つめた後、窓辺から刻々と迫り来る夕闇を目で追っていた。