冒険の書をあなたに
両手を翳し構えたままのポピーが叫ぶ。
「わたしが待機してますから、ルヴァ様、お好きな呪文を唱えてみて下さい!」
ルヴァは目を閉じてゆっくりと息を吐き、心の波を静めていく。
理力の杖を両手で握り締め、まずは炎の初級魔法メラのイメージを思い浮かべると、瞼の裏にちらちらと燃える炎の揺らめきが浮かび上がってきた。
そしてそのまま呼吸を整えて呪文を口にしようとした瞬間──恐らくメ、までは言えた筈だ──いきなり目の前に大きな火柱が上がった。
「ぅえええっ!? どっ、どういうことですかー!」
驚きですっかり裏返ったルヴァの甲高い声が周囲に響き渡る。危うく髪とターバンを燃やしてしまうところだった。
確か魔術書には「小さな火の玉を出す初級魔法」と書かれていた筈だ。だが今のはどう見ても明らかに火柱……しかも詠唱しきってはいなかった。
(私は何かを間違えたんでしょうか……? もう一度、やってみなくては)
次はさっき杖を用いて一度成功したイオを唱えてみることにして、先程の感覚を思い出そうと必死に集中する。
同じように呼吸を整えてイ、と言葉を紡いだ途端にルヴァの後方で大きな爆発が起こり、爆風がルヴァの体を勢い良くよろめかせた。
余りの爆風にアンジェリーク特製の大切なターバンが吹き飛ばされないように両手で押さえながら、ルヴァの頭の中に一つの結論が浮かんだ。
(……どうやら、詠唱が終わらないうちに呪文が発動しているようですね。うまくサクリアを変換できていない、若しくは呪文で力を引き出すことは不可能、ということなんでしょうか……)
悔しそうに薄い唇を噛み締めるルヴァの様子をちらりと横目で確認し、マーリンがじっと考え込んだ。
「ふーむ……賢者様は、我々と同じ詠唱では引き出せる力が大きすぎるようじゃのう。ポピーや、詠唱は命令形で念じなされよ、と伝えてくれんか」
一体のストーンマンの目に強い光が宿り、岩の体がルヴァのほうへと向き直った。
そこへマーリンが静かに歩み出ていく。その頬に挑むような薄笑いを浮かべている。
「わしがおまえの相手をしよう────メラミ!」
マーリンの指先から放たれた大きな炎が渦を巻きひとつの塊に変わりながら、ストーンマンへと向かっていく。派手な衝撃音とともに火の粉を撒き散らし、轟々と燃えさかる紅蓮の焔に呑まれたストーンマンの動きがぴたりと止まった。
「ルヴァ様、マーリンお爺ちゃまが、呪文の詠唱は命令形で念じるようにって言ってます!」
ぶすぶすと燻された香りが漂う中、煙の奥にうっすらと見える影に注意しながら──まだ息絶えてはいないようだ──ポピーがマーリンの言葉を伝えた。
「命令形で念じる……ですか。分かりました、やってみます」
マーリンと視線を合わせて一つ頷き、言われたことを頭の中でしっかり反芻してから再び目を閉じて集中した。
瞼の裏に再び赤い光がちらちらと映り始めた頃、声には出さずに命じた。
(────小さき炎よ、集まりなさい)
今度はルヴァの耳元に強い風が吹き抜けていくような音が届いた。
熱気が顔の辺りに集まっていて、一気に汗が噴き出してくる。
恐々と目をそうっと開けてみれば、杖の上にこぶし大の小さな火の玉が現れている。────まずは成功だ。あとはこの作り出した炎を飛ばせられればいい。
そっと杖を握り直して、深呼吸をする。そして強く命じた。
(行きなさい!)
本来であれば、ここで小さな火の玉がひとつストーンマンに当たって終わる筈だった。
だがルヴァが生み出した火の玉は、あろうことか同じ場所から幾つも幾つも素早く生まれ出ては、ぴたりと動きを止めたままの──否、動けないと言うべきか──ストーンマンへと次々にぶち当たっていく。
杖から火の玉が飛び出して行く度に掴んでいる腕にも衝撃が伝わってきて、ルヴァは必死に杖を押さえ、両足でふんばって耐えていた。
アンジェリークはその様子を見て、まるで映画で見た砲撃のようだ、と目を丸くしていた。
容赦なく火の玉を当てられ続けたストーンマンの姿は、もうもうと立ち昇った黒煙が風に流された頃にはすっかりと消え失せてしまっていた。