冒険の書をあなたに
そうして一行は再び先程訪れた広場にやって来た。
ルヴァはまた杖を地面にしっかりと突き立てて、背後にプックルの横にいるアンジェリークへと声をかけた。
「アンジェ、私の隣へ来て下さい」
ルヴァは何をするつもりなんだろう、と不思議そうな顔をしてアンジェリークが隣へと歩み寄る。
「……手を、こちらへ」
エスコートをするときのような自然な流れですっと手が差し出され、アンジェリークもまたごく自然に自分の手を重ね置いた。
「どうかあなたの力を貸して下さいねー」
重ねた手が一瞬だけぎゅっと握られて、少し緊張した様子のルヴァの顔が淡く綻んだ。
「ルヴァ、わたしはこうしているだけでいいの? 何かしなきゃいけないことはない?」
アンジェリークは口元に微笑を湛えてそう訊ねると、ルヴァがこれ以上緊張せずに済むようにと努めて平静を保ち、それから口をつぐんだ。
その質問と答えのはざま、敢えてほんの少しだけ置かれた間が、ルヴァの思考を妨げていた余計な焦りを消し去っていく。
「うーん、そうですねー……では、あなたがいつもサクリアを使うときの感覚を思い出していただけますか。私を宇宙だと思ってやってみて下さい」
静かに視線を交わしてお互い頷き合った。そしてルヴァがポピーへと声をかける。
「ポピー、餌を撒いて貰ってもいいですか」
魔物の餌をきっちりと包んでいる葉を解きながら、ポピーの口角がきゅっと上がった。
「はーい。ルヴァ様、準備いいですね? 今度は向こうに投げますよ──いち、に、さん!」
ルヴァから見て十一時の方角を指差し、ルヴァが頷いたのを確認してからポピーが魔物の餌を放り投げた。
そこへ現れたのは、馬の頭に羊の角が生えた魔物が二体。それを見てポピーが叫んだ。
「メッサーラ……! 気をつけて下さい、呪文が少し効きにくいの!」
アンジェリークは目を閉じて間もなく静寂の世界へと身を委ね、その身体が淡く黄金色に輝き始めた──その背に白く大きな翼を背負って。
手から伝わるその温かな力は急速にルヴァの心を落ち着かせ、やがて真一文字に固く引き結ばれていた唇が言葉を紡いだ。閃光系呪文のベギラゴンが発動する。
「光焔よ、囲みなさい!」
重ねた手から幾筋もの細い光がちりちりと鋭い火花を放ち、稲妻のような炎となって時折爆ぜながら敵を囲い込むように廻り、ぐるりと一周したところで一気に灼熱の焔の壁となった。
焔の壁は赤から橙、そして黄色へと目まぐるしく変化して立ち消えていき、その中で顔を覆うようにして佇むメッサーラの姿が確認された。
ルヴァはメッサーラが残り一体と確認すると、ふっと肺に溜まった息を短く吐き出して、即座に次の呪文、メラゾーマの詠唱へと入った。
「焔(ほむら)よ、ここに」
言葉の余韻が消えぬ内に燃え盛る炎が二人の足元を囲むように沸き起こり、円を描いてほとばしる。たちまち轟々と音を響かせながら幾本もの真っ赤な火柱となって螺旋状に巻き上がり、二人の上空に集まって一つの大きな塊になってゆく。
ルヴァは目を開けてメッサーラを視界に捉えた。息を整えて強く命じる。
「────行きなさい!」
ルヴァの声に呼応するかのように、巨大な火球はメッサーラを一呑みにして砕け散る。
火の粉が散り散りに舞い、風に煽られた黒煙が空へと溶け込んでいった。
メッサーラたちの居た場所には、影だけが残されていた。
ポピーは魔物たちがアンジェリークを天使と呼んでいたその理由を目の当たりにして、更にルヴァから放たれた上級魔法の連撃に、驚き身震いした。
言葉を発するのも憚られるようなどこか静謐な空気の中で、ポピーの囁きが紡がれる。
「……凄いね、マーリンお爺ちゃま……。いつもあんな風に見えてたの?」
真っ直ぐな金の髪を風に任せて、ポピーは二人の様子をじっと見つめていた。
マーリンの擦り切れた緑色のローブが衣擦れの微かな音を立て、ポピーの横に並んだ。そのグレーの瞳を囲む皺には喜びが刻まれている。
「ああ……綺麗な翼じゃろう?」
人から魔に堕ちて生を受けたこの世界で、美しきものには幾度となく出会ってきた。
だが人が思い描いてきた神の御使いそのままの、余りに眩い光を湛えた純白の翼はそう滅多に見られるものではないのだ────その幸運に感激し、マーリンは胸の内で跪いた。
その身を包んでいた黄金色の輝きが静かに失われ、翼ははたりと一度震えて掻き消えていった。
アンジェリークはそれからゆっくりと目を開けて傍らのルヴァへと視線を移す。
「終わった……の?」
どこか戸惑い気味のアンジェリークの声に、ルヴァはそっと重ね合わせていた手を再びしっかりと握り、会心の笑顔を見せた。
「ええ、大成功でしたよ。ありがとう、アンジェのお陰です」
何だかよく分からないといった様子のアンジェリークだったが、ルヴァが無事だったことがとにかく嬉しい。そこへ、マーリンがすいと近付いてきた。
「お見事でしたな、お二人とも。上級魔法を難なくお使いになられるとは素晴らしい!」
ポピーがマーリンの声を即座に伝えると、ルヴァははにかみつつもほっとした表情になった。
「ご指導ありがとうございました。なんとか……形にはなったと思います。あとは追々覚えていければ」
こちらの世界の呪文とは違う形で詠唱しても暴発はしなかった。威力の調整にはまだ改善の余地はあるものの、ひとまずは安定したと言えるだろう。
「思った通りになりましたかの?」
その言葉にルヴァは力強く頷いた。
「そうですね、アンジェの調和の力を介せるのか、介してみたらどうなるのか、と思ってやってみたんですが……正解だったようです」
実際アンジェリークから流れ込んだ力は実に心地よく、とても集中しやすいというのだろうか、暫くは色々とよぎる雑念などが全て静寂の中に取り込まれ、一瞬にして瞑想している状態になれた。それに加え、続けて詠唱をしても全く疲れを感じない。
過分に与えず、不足をそっと補い、するべきことが心の奥からくっきりと浮かび上がってくるような、実に無駄のない采配。
これがこの世界で発揮された女王の力なのかと、ただただ感動を覚えた。
彼女を天使と崇め讃えた彼の地の民たちの見立てはとても正しかったと、ルヴァはその身をもって知ったのだ。