冒険の書をあなたに
建物の中に入ったとき、アンジェリークの目が見開かれた。
「……ここ、パパスさんの……」
確かに駆け抜けていた。この壁が後ろに見えていたのを覚えている。
息を飲んでルヴァの袖を掴む手を、ルヴァはそっと握って包み込んだ。
「プックル、来い」
リュカの静かな声が、しんと静まり返った遺跡の中にこだまする。
ルヴァがリュカの背中へ向けて声をかけた。
「……私たちはここにいますからね、あなたの好きなようにしていて下さい。待っていますから」
「…………ありがとう。恩に着ます」
少しの沈黙の後で二人の耳に届いたその声は、僅かに震えていた。
かつかつとプックルの爪が床に当たる音がする。
それ以外には息遣いしか聞こえぬ静寂の中、プックルが切なげに啼いた。視線の先には床に残る黒ずみ────そこはパパスが消し炭となった場所だ。
リュカはおもむろにそこへ立つと、腰に下げていた古びた剣を鞘ごと外し、その黒ずみの場所へと置いた。
そしてそっと床に座り、手に持っていた袋の中から布に包まれた瓶と小さな木製のコップを二つ取り出して、コルクの栓を抜き中身を注ぎ入れる。
まるで神聖な儀式のようにコップの一つを剣の前に置いて、暫くの間身じろぎもせずに黒ずみの辺りをじっと見つめていた。
その横顔には長い間寂しい夢でも見続けていたような遠いまなざしが浮かび、やがてぐっと唇が歪む。
喉が、肩が、積年の想いを吐き出すように大きく震え、リュカの節くれた手が顔を覆い隠した。
それは────余りにも静かな哀哭の声だった。
そこで何が起きたのかを知るアンジェリークが痛ましさに胸を塞がれて立ち竦んでいると、ふいにプックルの声が耳に届いた。
「天使よ、頼みがある」
「……はい」
声を出すと涙が溢れてしまいそうだった。
ルヴァの手がアンジェリークの背にそっと宛がわれ、優しく温める。
リュカの横に寄り添い座るプックルの弱々しい声が続いた。
「そのまま……リュカのために泣いてくれ。泣けないおれとパパスの代わりに」
アンジェリークの中に水鏡で垣間見た光景が再び蘇る。
焦げ跡の周りを彷徨いながら、幼い声が嗄れるまで幾度も叫んでいたプックルの言葉を。
人間と魔物という種族の違いは、どれだけの絆をもってしても────リュカを一人にしないでと叫んでいたこの優しき友にすらも────越えられない壁となって立ちはだかっている。
もしも彼が人の子であったならば容易い筈のその願いは、さざ波のように押し寄せる寂寥感でもってアンジェリークの胸を締め付け、とうとう彼女の瞳から涙を溢れさせた。
頬を伝ったそれはぽたり、ぽたりと床につかの間の染みを作っていく。
それまで俯いていたリュカがふいに大きく息を吸い込み、涙に濡れた顔を上げ薄く笑った。
「……ここで……ちょうどこの場所で、父が。……最初は、一人で来るつもりだったんですけど。やっぱりお二人について来て頂いて良かったな……」
指先で目元と頬を拭い、リュカは掠れた声で話を続けた。
「夫でも父の立場でもなく、ただの……パパスの息子としてここに来れました。本当に感謝します」
そう言って頭を下げたリュカの胸中を慮るルヴァ。
(家族の誰かがいたなら夫や父の立場から離れられず、かといって他の……サンチョ殿やヘンリー殿では……痛みを分かち合うには傷が深すぎるのでしょうね)
リュカは袋からコップをもう二つ取り出して、ルヴァとアンジェリークを見つめた。
「一杯だけ付き合って貰えませんか」
差し出されたとても小さなコップを受け取って、二人は淡く微笑んだ。
「もちろんお付き合いしますよ。ね、アンジェ」
「ええ、いただくわ」
二人の器に注がれたルラフェンという名の町で作られた地酒だというそれは、口に含むとほんのりとした甘さが滋味深く、優しい味わいの酒だった。
黙してちびりちびりと酒を飲みつつ、ルヴァの意識はやがて思考の海へと沈んでいく。
もし守護聖に選ばれていなかったら、いつか父と酒を酌み交わす瞬間が訪れていたのだろうか──という問い。
(あの父と私なら、きっとお酒ではなくてお茶だったんでしょうねえ……)
その問いには答えなどない。最早永遠に訪れる機会のない光景だからだ。
そしてそれは、隣にいる彼の天使にも同じことが言えた。
パパス前国王への弔い酒──だがルヴァとアンジェリークの家族に対しても、恐らくは似たような意味を持つのだろう。