冒険の書をあなたに
ふと見ると、橋を渡った少し先の建物の側でアンジェリークが屈み込んで何かをしていた。その横でプックルが尻尾を揺らめかせて前足で地面を掘っている。
一体彼女は何をしているのだろう、とルヴァが声を張り上げた。
「アンジェー? そんなところで何をしているんですかー」
アンジェリークもまた木の枝を持って地面を掘っているようだ。
「ルヴァー、リュカさーん、こっち来てー!」
二人は何事かとアンジェリークの側へ早足で歩いていく。
アンジェリークからにこやかに手渡されたのは、アンジェリークとルヴァがこの世界へ来たときに拾ったドングリだ。
「古そうだし芽が出るか分からないけど、ここにね、埋めておこうと思って。ここがリュカさんのおうちだったんでしょ?」
ふにゃおん、とプックルが啼いた。教えたのはおまえか、とリュカが苦笑いをした。
「そう、ここで過ごしていました。記憶にあるのはとても短い間なんですけどね……グランバニアはぼくの生まれ故郷ですが、ぼくにとっての始まりの場所はこの村なんです」
リュカは手の中の小さなドングリを見つめ、慈しむように優しく握り締めた。
「このドングリね、こちらに来たばかりの頃に拾ったんです。だからグランバニア産のドングリなのよ」
若芽のような翠の瞳が弧を描いたのにつられて、リュカとルヴァの二人の目も柔和な光を湛えた。
「よく持っていましたねえ、アンジェ。見たところ虫食いの跡もないですし、腐ってなくてちょっと古いだけならいつか発芽するかも知れませんねー。では私もひとつ埋めましょう」
二人はアンジェリークの真似をして少しだけ窪みを作り、そこへドングリを置いて薄く土を掛け戻した。
「あー、そういえばリュカ殿の杖は樫で出来ているのでしたね。『大きな樫の木も小さなドングリから育つ』と言いましてね、小さなもの、僅かなことだと思っても決して軽視してはならない。それはやがて大きな力となる、というような意味合いの言葉があるんですよ。小さなことからこつこつと努力することを疎かにしてはならない、とね」
それを聞いた瞬間、ぶはっ、とリュカが吹き出した。
「あっはははは! いや、失礼……。実はとても似たようなことをサンチョとマーリンからも言われたことがあるんです。ルヴァ殿で三人目だ!」
プックルがうにゃにゃ、と奇妙な鳴き声を上げている。アンジェリークの耳にはこう聞こえていた。
「魔法使いや賢者っつう頭のいい生き物は、どいつもこいつも似たようなことを言いやがるのは何故なんだ。サンチョはリュカがガキの頃、パパスと一緒に言ってた記憶があるが」
場合によっては調子に乗るなという意味合いでも聞かされそうなそのことわざだが、サンチョやマーリンは逆の意味で言ったのではないかとアンジェリークは思った。
「あら、でも忘れかけた頃にもう一度聞いておいたら、しっかり覚えられるって言うじゃない。場所や人を変えて何度も聞かされるんだとしたら、それはその人にとって必要な言葉なのよ、きっと」
リュカが人並み以上の苦労と努力を積み重ねてきたことを、身近にいる彼らが気付かない筈はないのだ。その彼らがわざわざ言い含めたのなら、孤独と闘い続けてきた彼への労りの気持ちゆえではないかと。
「……リュカさんは独りじゃないんだから、何もかも背負い込まないでって、言いたかったんじゃないかしら。ね、ルヴァ?」
アンジェリークの労りを込めた慈愛のまなざしが、少しだけ切なげに歪む。
その言葉がリュカだけに向けられたものではないことに、ルヴァはすぐに気付いた。
「……そうですよ、独りじゃないんです。リュカ殿も……あなたもね、アンジェリーク」
ちょうど跪いた姿勢のまま、アンジェリークの薄い手の甲にそっと唇を押し当てた。
たちまちよく熟れた赤林檎の色に染まる頬を見て、ルヴァは蕩けるほどの甘さを含めた笑みを浮かべた。
単純に嬉しかったのだ。多くの守護聖が気がかりにしていたことを、彼女はきちんと真っ直ぐに受け止めてくれていたのだから。
「辛いことも嬉しいことも、皆で分かち合えたらいいですよねぇ」
にっこりとルヴァの頬が緩み、リュカとアンジェリークも大きく頷く。
「同感です。幸いぼくには魔物たちがついてきてくれました。本当の独りきりになっていたら、きっと挫けてしまってた……」
ありがとうな、と言ってプックルを抱き締めてそっと背中を撫でるリュカ。ゴロゴロと大きく喉を鳴らしたプックルが話し出す。
「おれはおまえとビアンカとチビどもが死ぬまでついててやるからな。もしあのバカガキが裏切ってもおれがいるぞ」
アンジェリークが首を傾げてプックルに話しかけている。
「プックル、バカガキって誰のこと?」
ぐおん、と不機嫌そうな唸り声が響く。尻尾が苛立ったように二、三度地面を叩いた。
「ヘンリーのことだよ! 悪いがおれはあいつを許す気にはなれん。サンチョと同じくラインハットにいい思いは持ってない。あいつの我侭がなけりゃ今頃パパスは」
言いかけたプックルの鼻をぶにっとつまみ、リュカが嗜める。
「プックル、やめろ。ヘンリーが悪いわけじゃないんだ。あいつも十年、苦しんでたよ」
「あいつ、おまえをあっさり見捨てやがったろ! どこが苦しんだってんだよ!?」
アンジェリークが堪え切れずにくすくすと笑い出す。
「もー。プックルってば、リュカさんのことほんとに大好きで心配なのね。ヤキモチも程々にしないと嫌われちゃうわよ?」
プックルの尻尾が激しく床を叩いた。
「ヤキモチじゃねえっての! とにかくおれはあのバカガキとクソガキは見たくもねえ! あいつら親子しておれの尻尾引っ張るしよ!」
プックルの言葉にリュカはお腹を抱えて笑い、アンジェリークは少し困った様子で肩を震わせている。
ひとしきり笑った後リュカが片手で目元に陰を作り、ゆっくりと空を仰いだ。
真っ青な空に浮かぶ太陽光が容赦なく肌に降り注ぎ、その強烈な眩しさに一瞬視界が白んだ。
まるで自分がすっかり透き通って景色と同化してしまったかのような、澄み切った気持ちになれたのは久し振りだった。
そして心の中が空っぽになったかと思えば、急激な空腹感に襲われていた。
口角を上げてアンジェリークとルヴァへと視線を流す。
「……そういえば、お昼がまだでしたね。ラインハットの城下町に屋台も出てると思うんで、そこで何か食べませんか」
賛成! とアンジェリークが手を叩いて喜び、一行は再びラインハットへと移動した。