冒険の書をあなたに
だが、そんな二人の時間は唐突に終わりを迎える。
周囲の異変に気付いたのはアンジェリークが先だった。
何か奇妙な気配に薄目を開けてみると、周囲を取り囲む複数の人間────のように見えたが、宙に浮かんでいる上に身に纏う炎が彼らを人為らざる者たちだと如実に知らしめていた。
「ルヴァ……わたしたち囲まれてるわ」
口付けの余韻に浸っている風に装いつつ、ルヴァの胸にもたれてアンジェリークが囁く。
怖くないかと訊かれれば、怖かった。だが二人で乗り越えられる術を知り、彼の手助けができると知った今は、以前ほど怖くはなかった。
「どうやらそのようですね……四体いるようです。ここは戦うしかないでしょう」
ルヴァが自らの背に手を回し、そっと腰布に挟み込んでいた理力の杖を抜き取って構えながら、空いているほうの手をアンジェリークと重ね合わせた。
目を閉じて集中し始めたアンジェリークの背からすぐに翼が具現化し、ルヴァの中へと魔力が流れ込んでいく。
(見た目からして炎を身に纏っているくらいですから、炎属性は効かない筈。ヒャド系が有効ならば一気に倒せるでしょうか……)
静かに目を開けて彼らの様子を流し見た後に、短く息を吸って言葉を紡いだ。
「────氷片よ、降りなさい!」
二人の周囲を重ねた手の先から現れた小さな氷の欠片が囲み、徐々に速度を上げながら巡っていく。
そして欠片同士が激しくぶつかり合い、かちかちという音を無数に奏でながら四体の炎の戦士の上へと降り注いだ。
炎の戦士たちは皆まともにその攻撃を喰らったが、まだ誰も倒れる者はいない。
その内の一体から吐き出された炎が二人を襲う。
避ける暇がない近距離からの攻撃に、ルヴァは咄嗟にアンジェリークを庇うように抱き寄せたが、その瞬間頬に当たる柔らかな感覚に気付いて周囲を見渡した。
ルヴァの頬に当たっていたのはアンジェリークの翼で、淡い金色のヴェールを纏い二人を包み隠すように大きく広がっていた。
炎の戦士が吐き出した炎は翼に触れる直前で掻き消えてしまい、ランプの熱くらいの暖かさしか感じなかった。
防御の呪文の一つ、フバーハ──炎や吹雪などのブレス系攻撃のダメージを軽減させる魔法が発動している──ルヴァは詠唱すらしていないのに発動された魔法に驚き、同時に女王が持つ慈愛の力の真髄を見たのだった。
アンジェリークは未だに目を閉じて祈ったまま、睫毛一つ動かない。周囲の雑音など既に聞こえてはいないだろう。
集中の邪魔をしないように重ねていた手の甲にそうっと口付けて、ルヴァは次の詠唱に入った────上級呪文で一気にカタをつけるために。
「凍つる牙よ、穿ちなさい!」
足元から敵全てを含んだ円状に砂が凍てついていく。
炎の戦士たちが慄いてその範囲から逃れようと動いた瞬間、地面から現れた鋭い氷柱が彼らを次々と貫いた。
幾本もの氷柱に串刺しにされた彼らはさらさらと砂塵になり……やがて灼熱の大地へと同化していった。
帰り際、指を絡めて手を繋ぎながら二人は来た道を戻っていた。
「……ねえ、ルヴァ……質問してもいい?」
どこか沈んだ様子のアンジェリークの横顔に、ルヴァの胸中がざわめく。
「ええ、もちろんいいですよ。どうしたんですか?」
気がつけば陽がかなり傾き、やがて水平線の向こうへと眠りにつく間際の光が辺りを橙に染め上げていた。
「ルヴァは、あの……魔物を倒すことに、抵抗はないの……?」
アンジェリークとしては日頃から争いを避けようとする彼が、淡々と攻撃呪文を駆使している姿に少し違和感があるのだ。
ルヴァはその質問に穏やかな調子で答えを返した。
「あるかないかで言うなら、もちろんありますよ。戦いはせずに済むのならその方がいいですが、今の状況のようにどうしても戦わなければならないのなら……私は容赦しません。私たちは絶対に生きて帰らなくてはいけませんから」
繋いでいた手が解かれ、ルヴァの歩みが止まった。
振り返って見てみれば俯いた表情は苦しげで、薄い唇を噛み締めていた。
「……こんな私を軽蔑しますか、アンジェリーク」
紙のように蒼白な彼の顔色に、呼ばれた名が愛称ではなかったことに、そして告げられた言葉の重さに、アンジェリークは愚かな質問をしてしまったと己の浅はかさを後悔した。
(命を屠る自分の姿に、優しいルヴァが嫌悪しない筈がないじゃないの……!)
その痛みと矛盾を背負ってでもなお、彼はアンジェリークを守っているのだ。
殺さなければ殺される世界から、二人とも無事に聖地へ戻るために。
「軽蔑なんてするわけないでしょう? でも……ルヴァに苦しんで欲しくないの」
アンジェリークは両手をそっと彼の頬に添えた。見上げたその顔が泣いているような気がしたからだ。
ルヴァの手がアンジェリークの手に恐る恐る触れかけて、暫し躊躇った後に────結局触れられぬまま、行き場を無くした。
「この手をどれだけ汚したとしても……あなただけは、失えないんです」
愛しているから。
そんなルヴァの秘められた言葉の続きが聞こえたように思えてならなかった。
「無理しないでね。わたしも頑張るから」
アンジェリークが頬に当てた両手を後ろへと滑らせて彼へ口付けると、そこでようやく安堵したようにルヴァの両腕が彼女をきつく抱き締めた。