冒険の書をあなたに
リュカの母マーサの故郷エルヘブンは、ほぼ垂直に切り立った崖や切り立つ山々に囲まれた台地に守られるようにひっそりと存在していた。
長い年月をかけて浸食と隆起を繰り返してきた名残だろうか、周囲の断崖と同じ質感の硬い岩が尖塔のように残されていて、人々は皆そこへ住んでいるようだ。
周囲をぐるりと見渡したルヴァが、そういえば、と思い出す。
「サンタローズも、崖のあるところでしたよね。あちらは河岸段丘でしたが……」
その言葉にアンジェリークがきょとんと首を傾げた。
「ルヴァ、カガンダンキュウ……ってなあに」
「あー、河岸段丘というのはですね、簡単に言うと河川に削られてできた平地のことですよ。サンタローズに段々が沢山あったでしょう? あれは、ずっと昔は川の底だったんですよ」
「村の真ん中に小川があったものね」
小さな花がぽつぽつと咲く芝生をそうっと踏みしめながら、一行はエルヘブン入り口の石段まで歩いた。
「元々はもっと大きな河川だったんじゃないかと思いますよー。いえね、なんとなく似ているなあって思っちゃいましてね」
ルヴァにはこの崖が間近にある風景、そして周囲の植生がどことなく共通している気がしたのだ。
グランバニアとエルヘブン、その両方の面影を少しずつ併せ持つサンタローズ。活気があった頃の村を見てみたかった、とぼんやり思った。
「……あーしかし、ここを上るんですね……随分と急ですが」
階段の先を目で追って見上げれば、首が痛くなりそうなほどほぼ垂直だった。
「しかも手すりがないわよ、お年寄りが足滑らせたらどうするのかしら。ここ造った人は変態だわ!」
「アンジェ、さすがに変態呼ばわりはお口が過ぎますよ。せめて変人と言っておきましょう、ねっ」
二人のしょうもないやりとりに、リュカが笑いながら呆れた声を出した。
「お二人とも、何のフォローにもなってないですよ……ぼくも変態的だと思いますけどね、この命がけの階段」
一行がエルヘブンの一番高い場所に辿り着いたとき、アンジェリークとルヴァはぜいぜいと肩で息をしていた。
アンジェリークが息を切らせて呟いた。
「か……階段の幅は、狭いしっ……高さもあって怖いし……やっぱり、ここ造った人は、頭おかしいわっ……!」
こめかみに青筋が立っていそうなその言葉に、ルヴァも大きく肩で息をしながら答えた。
「頭がおかしいかどうかは……分かりませんがっ……やはり、転落防止の……柵くらいは、あったほうがいいと、思い、ますね……っ」
そこでルヴァの声にけらけらと笑い出したティミー。
「お兄ちゃんもサンチョみたいになってるー!」
リュカ一家はこの長い石段を上ってきても当然のようにけろりとしていて、汗一つかいていない。
基礎体力の差が歴然と現れていた。
リュカが笑顔で二人を振り返る。
「ここが長老たちのいる祈りの塔で、その上にぼくの母の部屋がありますよ」
かつてマーサが住んでいた建物は祈りの塔と呼ばれているらしい。
中へ入るとそこには年齢不詳の女官が四人向かい合っていた────この四人がエルヘブンの長老たちなのだという。
全員がリュカの顔を見て僅かに口元を綻ばせ、その中の一人が口を開いた。
「お久し振りですね、リュカ。準備は整いましたか」
鈴の鳴るような美しい声だ、とアンジェリークは思う。
「はい、そろそろ魔界へ向かおうと思っています。今日はそのご挨拶と────別件でご相談があって」
アンジェリークとルヴァが一礼をして頭を下げた。もう一人の長老がちらりとアンジェリークの顔を見つめる。
「私たちにどのようなご用件でしょう?」
ルヴァは事の顛末を簡単に説明しようとして────案の定ちっともまとまりきらず、結局アンジェリークが代わりに説明をした。
「お探しのものは、天の詩篇集の中になら手掛かりがあるかも知れませんね」
「天の詩篇集は私たちエルヘブンの民に伝わる伝承歌を集めた歌集なのです」
「きっと異世界から来られたあなた方を導く助けとなるでしょう」
残り三人が一斉に話し出してカオスな空気になりかけたが、ルヴァが平然とそれぞれへ頷きながら返事をしてリュカ一家を驚かせていた。
「なるほど、天の詩篇集という本があるんですかー。歌集ということは誰かが歌うことになるんでしょうかねぇ?」
そう言いつつルヴァの視線がアンジェリークに向いていた。
たぶん高確率で自分が歌う羽目になるのだろう、とアンジェリークは覚悟を決めていた。
そこでポピーが少し困った顔をしてリュカの服を引っ張った。
「そういえば天の詩篇集は博物館に置いて来ちゃったよね、お父さん」
博物館、の響きにルヴァの目が途端にキラキラとしてポピーを見つめた。
「博物館があるんですかー!」
「世界中の名産品を集めた博物館があるんです、お父さんが館長さんなの」
本当に肩書きが色々ある人だ、とアンジェリークが笑った。
長老の一人が懐から本を出して、くすくすと笑っているアンジェリークへと手渡した。
「詩篇集なら私たちも持っていますよ。エルヘブンの者なら全員が所持しています。お貸ししますから読んでみられるといいでしょう」
中をめくって見てみたがやはりアンジェリークには読めない文章だったため、そのままルヴァに手渡す。
「ありがとうございます、暫くお借りします」
二人で長老たちに頭を下げたところでリュカが口の端を上げた。
「上の部屋へ行ってみますか」
頷いて奥にある階段を上っていくと、そこにはアンジェリークが水鏡で見た部屋が現れた。