冒険の書をあなたに
祈りの塔を出て宿屋へ向かうリュカ一家とルヴァ。
下りのほうが何倍も恐怖を煽られる恐ろしく急な階段を一家は軽快に、ルヴァは壁にへばりつきながらへっぴり腰で恐る恐る降りていく。
真っ先に駆け下りたティミーが振り返って手を振っている。
「お母さーん、ぼくたちちょっと武器屋のおじさんとお話してくるよー」
「はーい、外には行かないでねー! 宿屋に戻って来なさいねー」
ビアンカの声に元気良く返事をして、子供たちが一斉に駆けて行った。
ルヴァがようやく長い石段を下り切ったとき、彼の耳に微かな歌声が聞こえてきた────アンジェリークの声だ。
その懐かしい調べに思わず祈りの塔を振り返って仰ぎ見た。
ルヴァの位置からは塔の青い屋根しか見えない。
それでもリラの香りを纏った風に乗り切れ切れに伝わってくる歌声に合わせ、ルヴァは小さな声で口ずさむ。
「鳥よ、我が魂の片割れよ、きみ行く先に幸あれと思ひ染む────……」
その遠い視線にいまだ色褪せることのない恋情を宿し、持て余した憧憬をどうすることもできずにいた。
静かに塔の方角を見上げるその横顔は初恋に身を焦がす少年のようで、リュカとビアンカは彼の隣で優しいまなざしを向けていた。
ビアンカが僅かに火照った頬を冷ますようにぱたぱたと手で扇ぐ様子に、声を潜めてリュカが囁く。
「なに、ビアンカ。もしかしてちょっと見蕩れてた?」
少し気まずそうな表情で、隣に寄り添うリュカを見上げる。
「……あんな切なげな顔見ちゃったら、そりゃあ……ね。ちょっと照れちゃったわ」
リュカはふっと口の端を持ち上げてビアンカに口付けた。挑むような目がそこにあった。
「残念だったね、君の夫はこのぼくだよ。忘れたのか?」
「忘れたわけじゃないわよ。だけどほら、わたしたちにああいう初々しい時期があったっけ? って思って……」
ビアンカがちらりとルヴァのほうを見ると、真っ赤な顔を片手で覆い、困った様子で立ち竦んでいた。
どうやら軽い口付けを交わしながら至近距離で会話する姿を見てしまったらしい。
「あ、あの……私のことはお気になさらず、どうぞ続けて下さい」
そう言ってぎゅうと両目をきつく閉じたルヴァの姿に、ぷっとビアンカが吹き出して肩を震わせた。
「ルヴァさんってほんと、照れ屋なんだか大胆なんだかよく分からない人ね! アンジェさんと熱々なのかと思えば、今みたいに片思いしてるような目つきもするし」
「はあ……片思い、し続けているのかも知れませんねぇ……確かに」
どんなに同じ時を過ごしても、愛していると告げていても、じわりと心の中に巣食う不安が影のように付き纏う瞬間がある。
俯き弱々しいその声に、リュカがふと何かを思いついたように口を開いた。
「お二人はもしかして、結婚式とかされてないのでは?」
「え……」
ルヴァは足元に落としていた視線をぱっと上げてリュカを見た。リュカは自分の左手をかざして指差す。
「そういえばお二人とも指輪をしてらっしゃらないんで、もしかしたらって思って……違っていたらすみません」
「え、ええ……実は、あの……言い出しにくくてそのままだったんですけど、私たちは本当は夫婦ではないんです。結婚の約束はしてるんですけど、そのー、立場上まだ先の話になっているというか……」
ルヴァのしどろもどろの説明に、合点がいったとばかりにぱちりと指を鳴らすビアンカ。
「あー、だからなのね! だってどう見たってまだ恋人同士の熱々な空気なんだもの、あなたたち。わたしたちみたいな訳ありの新婚さんなのかなって思ってたわ!」
「すっすみませんっ」
慌てて頭を下げるルヴァの腕をビアンカがぺしりとはたいた。
「やーね、なんで謝るのよ! でもそれならいつかお式はするんでしょう? なんたって乙女の夢よね、ウェディングドレスとかー」
「ぼくらは元々式をする予定はなかったんですけど、お世話になった方のご厚意で挙げることができて……今はやって良かったなって思えますからね。この人と一生一緒なんだって意識ができたっていうか」
ね、と笑顔でリュカと顔を見合わせるビアンカ。
羨ましい────ルヴァは心底そう思った。
初めから聖地ではない場所で出逢えていたら。守護聖と女王でさえなければ、今頃何の躊躇いもなくあの人の夫でいられたのに。しかし今の状況を望んだのは、紛れもない自分自身なのだ。
「そう……ですね。それがいつになるかは分かりませんが……何しろ外界に下りた後は、生きて出会える保証すらないので」
その言葉に淡いブルーの瞳がじっとルヴァを見つめ、それから綺麗な弧を描いてリュカへと視線が注がれた。そっと耳打ちされた内容に、リュカの頬がニヤリと上がる。
「────それいい案だね、ビアンカ。ここにいても暇だし、ちょっと行ってくるか」
ルヴァは二人の会話の意味が分からず、きょとんとしている。
「えっ?」
「行ってらっしゃい。わたしは子供たちとここにいるわね、アンジェさんを待たなきゃいけないし」
ビアンカがにこやかに手を振った────リュカと、ルヴァの二人に。
「え、えっ……? あの」
何やら嫌な予感がしてじりじりと後ずさったものの、あっさりリュカの手に捕まった。
「じゃ、ルヴァ殿行きますよ。夕飯までには戻れますから安心して下さい」
「えっ? えええええ!? ちょっ、ちょっと待って下さい、わた、私をどこへ連れて行く気ですかー!?」
酷く楽しそうなリュカにぐいと腕を引かれて大きくつんのめるルヴァ。そのまま半ば引きずられるようにしてどこかへ連れて行かれた。
その様子にビアンカが一瞬だけ不安げな表情を見せる。
「あ、やば。リュカったら、あれは完全に遊ぶ気だわ。……ルヴァさん大丈夫かなー」
それから間もなく、ルヴァの悲痛な叫びが静かな村に響き渡っていた。