冒険の書をあなたに
時間は少し遡り、祈りの塔のアンジェリーク────
天の詩篇集を貸してくれた長老が柔らかい笑みを浮かべていた。
「それでは、まずはあなたの声を聴かせて下さい。何でもいいので一曲どうぞ」
アンジェリークが今歌いたい曲と言えば、比翼連理の歌しか思い浮かばなかった。
高らかに澄んだ歌声が辺りの空気を変えていく────天空城に足を踏み入れたときのような、ぞくぞくと背筋を奔る感覚がする。
「鳥よ、我が魂の片割れよ、曇りなき東(ひむかし)の空囀りて────」
歌の間ずっと目を閉じていたアンジェリークは気付いていないが、その間長老たちの目は驚愕に見開かれていた──アンジェリークの背に輝く純白の翼。そして全身を淡く包む神々しい光に。
「……えっと、こんな感じなんですけど……大丈夫でしょうか」
そっと目を開けて長老たちを伺い見た。緊張で自分の顔が強張っているのが分かる。
長老たちは四人ともが眩しそうに目を細めてアンジェリークを見つめていた。
「十分ですよ、と言いたいところですが……それではむしろ失礼に当たるかも知れませんね。なんと神々しき翼でしょうか!」
「マーサがいた頃を思い出します……。あのような大いなる力を、ここで再び目の当たりにできるとは思ってもいませんでした」
やはり口々に話し出す長老たちに困惑するアンジェリークのところへ、詩篇集を手に持った長老が歩み寄った。
「あなたならば伝承歌の真の力を呼び起こすことができるでしょう。さあ、始めますよ……まずは一小節ずつ歌いますから、私の後についてきて下さい」
そうして長老の歌の後を繰り返して歌い始めた。
一つの音と音の間が長く、伸ばしている間に独特の節回しが入ってくる。音程の細やかな上がり下がり、タイミングのずれなどを把握しつつ歌詞を頭に叩き込んだ。
「うたーかたのーらしんーばんがーごーときー」
パン、と長老の手が鳴って歌声が途切れる。
「とても綺麗ですが『うたーかたのー』ではなくて、『うぅたーぁあかたのー』と節をつけて下さい。そこからもう一度、さん、はい」
「うぅたーぁあかたのー」
「そうです、そうです! いい調子ですね。続けて」
新しい歌を覚える作業はとても楽しかった。
女王になってからこれまで大きな声で歌える機会などほとんどなく、久し振りに腹の底から出した自分の声が余りにも自由で、心も体もゆるりと世界に溶けてしまうような開放感に新鮮な感動を覚えていた。
こんなに自由に声を出したのはいつぶりだろうと考えた瞬間に、アンジェリークの声が揺れた。
目の奥の痛みを堪えようとしてくしゃりと顔が歪んだものの、間に合わずに翠の瞳からぽろぽろと雫が零れ落ちていった。
「あ……の、ごめん、なさい……」
いまや女王としての生活に馴染み、とうに消え去ったと思っていたかつての自分が顔を出したことに、アンジェリークは内心驚いていた。
歌を教えてくれている長老がハンカチをそっとアンジェリークの手に持たせ、ふわりと抱き締めた。
「アンジェリークと言いましたね。いいのですよ、自然に溢れ出る感情はしっかりと出しておしまいなさい。歌というものは本来、そのためにあるのですから」
優しい香りが鼻先を掠めた。マーサの部屋の窓からも漂ってきた、リラの香りだ。
「少し休憩をしましょう。歌うごとにあなたの中から強い力が生まれているのを感じます」
感情の抑制が効かず大きくしゃくり上げるアンジェリークを、長老たちがよってたかってなだめすかして椅子を勧め、紅茶を用意し、しきりに茶菓子を勧めた。
アンジェリークのしゃくりが小さくなり、すんと鼻を鳴らし始めた頃に長老が静かに口を開いた。
「なぜ譜面が詩篇集に載っていないか、もう一つ大切な理由があるのです」
紅茶の入ったティーカップがカチャリと小さな音を立ててソーサーの上に戻る。
「神より授かった大いなる力は、災いを呼ばぬよう正しき意思のもとにあらねばなりません。しかし伝承歌の全てを本にまとめてしまったら、一人で覚えてしまえます。ですから私たちの祖先はそれを禁じました。人から人へ口伝することにより、こうして向き合ってお話をする時間が持てるでしょう?」
この長老たち、厳かな態度や口調をしているものの茶菓子は好物のようで、いい食べっぷりを披露していた────この世界の女性たちはとにかく良く食べる人たちが多いなあ、とアンジェリークはぼんやりと考えていた。
「一人で完結できる力は素晴らしいですが、ときに孤独に苛まれた者を暴走させてしまいます。人との関わりだけが孤独を癒し、正しき意思をその心に持ち得るのですよ。私たちは一人で生きているわけではないのですから」
長老の言葉に頷き、ティーカップの底に沈んだレモンを見つめながら、アンジェリークがぽつぽつと話し出した。
「さっき歌ってみて気付けました。わたし、知らない間に自分らしさを閉じ込めてしまってたんだって。女王らしくあるべき……人からそう言われてきたし、自分でもそう思って必死で努力してきて。こんなに気兼ねなく歌ったのは、本当に、久し振りだったんです……」
女王としての自分を作り上げるのに必死で、その仮面の下に潜む孤独というものですら、良き隣人のように感じていたのだ。
「……続けます。早く覚えなくちゃ」
これまで嵐の後のように散らかっていた心の中も、こうして思い切って言葉にすることで気持ちの整理がついてきていた。
口角を無理やり持ち上げて、アンジェリークは席を立った。