冒険の書をあなたに
陽が傾いてエルヘブンの白い外壁が徐々に赤みを帯びてきた────思わず魅入ってしまうほどに美しい夕焼けは、刻々とその色を濃くしながら静謐な村一帯を染めていく。
辺りには家々から夕飯の匂いが漂い、細い煙が昇っては残照を待つ空へと溶けていく。列を成した鳥が夕映えの雲に黒点を飾っていた。
アンジェリークはすっかりと茜に染まった階段をゆっくりと下り、宿屋を探して辺りを見回した。
視界の先の曲がり角から、子供たちがひょっこりと顔を出して駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん!」
「アンジェ様! お歌はもう覚えたんですか!?」
ポピーの言葉ににっこりと微笑み、大きく頷いた。
「ええ、もうぜーんぶ頭に叩き込んできたわ! これでいつでも戻れると思うの」
「……」
アンジェリークの言葉に二人は僅かに顔を曇らせて、無言のままそうっとアンジェリークと手を繋いだ。
「ぼく……ほんとはお姉ちゃんたちに帰って欲しくないんだ」
ティミーの大きな空色の瞳から、見る見るうちに涙が溢れた。
「もうすぐお別れなんて、いやだよ……!」
「……ティミーくん……」
アンジェリークはかける言葉が見つからず、ぎゅうとしがみついてくるティミーをそっと抱き締めて張りのある金の髪を撫でていた。
「お、お兄ちゃんの、ばか……! 言わないって言ったでしょ……っ、う、うぇえん」
ポピーもまた声を震わせて、両手で顔を覆ってしまった。
こつりと頭をもたれかけてきたポピーの頭もよしよしと撫でた。
「……二人とも泣かないで。ごめんなさいね、わたしたちはどうしても帰らなきゃいけないの。そうしないと、世界がめちゃくちゃになっちゃうから……」
ここにルヴァがいなくて良かった、とアンジェリークは密かに思った。
彼の複雑に揺れ動く感情が、この世界に留まるほうへと思い切り傾いてしまうような気がしたからだ。
アンジェリークは膝を折り、二人の額にそっと口付ける。
そして頬をぴたりと寄せて囁いた。
「でもあなたたちとこうしてあちこち冒険できたこと、優しくして貰ったこと……わたし、ずっと忘れないからね」
俯いたアンジェリークの柔らかな金の髪の間を縫うように、玻璃のような雫が光を弾いてぽろりと頬を伝い落ちた。
そうして暫しの間、三人は止め処なく溢れる涙が落ち着くまで顔を寄せ合っていた。
子供たちの嗚咽が小さくなった頃、アンジェリークが口を開いた。
「魔界への扉のところまでは一緒だから、まだもうちょっと時間はあるわ。ほら、ルヴァに絵本読んで貰わなくちゃ、ね?」
そこへ小走りでビアンカが近付いてきて、涙目のままの三人に不思議そうな顔を見せる。
「あーいたいた! アンジェさんお疲れさまー。……あれ、どうしたの皆」
いまだぐすぐすと鼻をすすり上げながら、ティミーがビアンカへ嘆願し始めた。
「お母さん……お母さんからも、帰らないでって言ってよぉ」
「まーそんな可愛らしいこと言ってたのー? いいことティミー、大人には大人の事情ってものがあるの。アンジェさんを困らせちゃだめでしょっ」
「だって、せっかく仲良くなれたのに、なんでこんなすぐ帰っちゃうのさー!」
ごしごしと両目を擦り、目の周りを赤くさせたティミーがぶうたれていた。
「だからアンジェさんは女王様で、帰ってお仕事しなくちゃいけないのよ。いつまでもダダこねないの! だめなもんはだめ!」
両手を腰に当てて、困った様子で子供たちを諭すビアンカ。
「ねえお母さん……わたしも、アンジェ様とルヴァ様にずっといて欲しいよ……」
普段は聞き分けがよく、大人びた発言の多いポピーまでもが恐る恐る嘆願し始めて、ビアンカが片手で顔を覆った。
「あぁ、ポピーまで……」
「でもお母さんもそう思うでしょ? だってお母さんも、アンジェ様とお話してるときすっごく楽しそうなんだもん」
しかも妹のほうは実に冷静に話を纏めてくるものだから、何と言って諭そうかとビアンカは途方に暮れていた。
「う……それ言われちゃうと、確かにそうなんだけどー……」
ビアンカとしても長らく同世代のいない山奥の村で暮らしていて、同性の友人と呼べる人がこれまでいなかったためか、気楽に話せるアンジェリークをとても気に入っていた。
「……あーもう、降参! こうなったらリュカとルヴァさんに説得して貰おう! ね、アンジェさん!」
切れ気味にばむっとアンジェリークの両肩を叩くビアンカに、アンジェリークは思わず吹き出してしまった。
そして子供たちがジト目でビアンカを見つめ、それぞれがぼそりと呟いていた。
「いーよ、お父さんにも全力でダダこねてやるから」
「じゃあわたし、ルヴァ様に泣き落としします。お兄ちゃん、頑張ろうね!」
「おう!」
「ポピーちゃん、泣き落としは本気で止めてあげて……」
ルヴァに滝のように泣かれてしまったらどうしよう、少なくとも胃はキリキリしちゃいそうだわ、とアンジェリークは痛むこめかみを押さえた。
「ところでそのリュカさんとルヴァはどこにいるの? 宿?」
きょろきょろと見回してみるが、気配も何もない。
ビアンカが視線を宙に彷徨わせて頬を掻いた。
「ちょ〜っと野暮用でね、二人でお出かけしてるの。そろそろ戻るとは思うんだけど……わたしたちは宿に戻っていましょ」