冒険の書をあなたに
明け方────まだ辺りが仄暗い頃にアンジェリークを呼ぶルヴァの声がする。
「アンジェ……起きて下さい」
重たい瞼を持ち上げると、そこには既に身なりを整えたルヴァがいた。
「ん……どしたの? ルヴァ……」
寝起きの舌足らずな声も可愛い、とルヴァの目尻が下がる。
「お休みのところをすみません。あの……外に出てみませんか。これから雲海が出るかも知れません」
「うん、いく……」
ルヴァはまだ少し寝ぼけているせいか口調もやや幼いアンジェリークに毛布をぐるりと巻きつけ、靴を持たせてそのまま抱き上げる。
「結構気温が下がっていますから、しっかり包まっていて下さいね」
開閉するたびに軋んだ音を立てる古い木製の扉を、そうっと押して外へ出た。
冷えた空気が肌を刺す。吐く息がほんのりと白くなったのは、夜半の湿度が高かった証拠だ────雲海の発生条件は揃っている。
宿屋の前からでは東側が余り良く見えないため、そこからはゆっくりと見晴らしのいいところまで階段を上った。
ルヴァはアンジェリークを包み込むようにして座り、地面からの冷気がこないようにと気遣う。
蒼くひっそりと眠っていた世界が少しずつ目覚めていく。
蒼から白へと移り変わる最中、険しい岩山を滑り落ちる深い霧がエルヘブンの盆地へと滝のようになだれ込んでくる。
やがて東の空に浮かんだわた雲は焔の如く赤々と燃え立ち、眼下に広がる雲海を薄紫に染めていく。
薄紫の雲海は時を待たずして暁光に照らされ、間もなく眩い黄金の海へと変身を遂げた。
一羽の鳶の鳴き声が高らかに響いた────新しい一日の始まりを告げるように。
二人は身を寄せ合ってその光景をうっとりと眺めていた。
ルヴァがその端正な顔を陽に晒したまま、どこか照れ臭そうにアンジェリークの柔らかな髪に唇を寄せた。
「こんな早くに起こしてしまってすみませんでした。この景色をね、どうしても二人で見ておきたくて」
昨夜宿の主人から雲海が見られることを聞き、この一度きりのチャンスに賭けた。
エルヘブンへ来ることはもう二度とないだろう。
この世界へ来る機会も────恐らくは、ない。
その心情を察してか、アンジェリークの瞳は刻一刻と表情を変える雲海から、ルヴァのほうへと向いた。
「雲海って見ようと思って見られるものじゃないのに、わたしたちラッキーだったわね」
そう言ってゆったりと優しく微笑んだ彼女から、甘やかな口付けが贈られた。
二人に残された僅かな時間を惜しみつつ、それから暫く佇んでいた。