冒険の書をあなたに
ルヴァの足音が止まり、それに気付いたリュカが後ろを振り返った。
眉尻を下げて揺らぐ瞳をそのままに、ルヴァが深々と頭を下げる。
「本当に……偶然出逢っただけなのに、何から何まで助けていただいて。まともな恩返しもできなくて心苦しいくらいですよ」
一瞬驚いたような顔をしたリュカの頬が柔らかく微笑む。
「あはは、真面目だなあ。いいじゃないですか別に、ぼくたちがしたいようにしてるだけなんですから!」
「……しかし」
なおも言い募るルヴァへリュカの顔がふいに近付き、そっと囁かれた。
「じゃあ……色々便宜を図った見返りに、もうこの世界から帰しませんと言ったら……どうしますか」
何やらまるで彼に口説かれてでもいるような言葉と距離感に、ルヴァの脳内は混乱を極めた。
先日から思っていたことではあるが、彼は人との距離感、パーソナルスペースがとても近いのだ。
柄の悪い人間がよくやるようなことですら、彼は至極上品にさらりとやってのける。それが天性のものか育った環境のせいかは分からないが、彼が人たらし、魔物たらしである一因にもなっているようだ。
「ええと、あの……言う相手をお間違えではないでしょうか……」
ルヴァのターバンの裾を指先で弄びながら──傍目には口説いているかカツアゲしているかにしか見えない──そのままじっと見つめていたかと思えば、ぷ、とリュカが吹き出した。
「アンジェリーク殿に言ったらそれこそあなたがまた激怒しちゃうでしょ。ああでも、言って反応を見てみたいなあ。きっと可愛い反応が返ってくるんでしょうね」
「だ、ダメです!」
最愛のアンジェリークが他の男へ向けて照れてはにかむ姿など見たくもない、というのが本音だ。
そういう意味では、単にアンジェリークをからかっているだけの炎の守護聖よりもよっぽどたちが悪い。彼の場合はからかった結果アンジェリークを怒らせているほうが多いせいだ。
「ほらそう来たー。……ま、それはこの際どうでもいいとして。それじゃあぼくからのお願い、ひとつ聞いてくれませんか」
「はあ……私にできることでしたら」
両眉をひょいと上げて、ニッと笑うリュカ。
「ぼくはね、あなた方のこと友達だと思ってるんです。ぼくだけじゃない、ビアンカだってそう」
そこらへんの畑から頼まれた野菜──他人の畑でも身内扱いなので好きに採っていいほどのド田舎だそうだ──ニンジンだのホウレンソウだのをぽんぽん引っこ抜き、手持ちの籠に無造作に放り込んでいく。
ルヴァも近くで話に耳を傾けつつ、トマトを遠慮なくもぎ取り次々と籠に放り込む。
「だから、お互い畏まって殿ってつけるの、もうやめませんか。なんか堅苦しくって! 呼び捨てが苦手でしたらさん付けでも何でもいいですから、殿は禁止で。ビアンカにもです」
リュカがヘンリーにしたときのように、握り拳をすっとルヴァの前に持ってきた。
「分かりました。それなら私のこともルヴァと呼んで下さいねー、リュカ」
この「ぐー」はどうしたらいいのだろうかと戸惑うルヴァへ、リュカが拳をぐいと寄せ、慌ててルヴァも拳を突き合わせた。
「それじゃあ改めてよろしく、ルヴァ。インゲンは任せましたからね」
それから二人は周辺の畑を適当にうろつき、すれ違う村人と和やかに談笑しながら野菜を収穫して回った。
リュカはビアンカの夫として既に認知されており、野菜を勝手に収穫していても誰も文句を言わないどころか、「ダンカンさんに持って行っておやり」と更にあれこれと持たされていた。
「ルヴァ、ぼくらはあと何を持っていけばいいんでしたっけ」
リュカの質問に、ポケットから手帳を出して確認するルヴァ。
「ちょっと待って下さいー……あとはポピーのクレソンだけですねー」
「クレソンかぁ……確かセブさんちの裏の小川にあったと思うんだけどなー……ま、行ってみるか」
村人とのんびり喋りながらの収穫だったので、時刻は結構過ぎてしまっていた。パンの仕込みももう終わっている頃だろう。
「それなら他の野菜は私が先に届けてきましょうか」
「あ、そのほうがいいですね。じゃあこっちの籠お願いします」
根菜が山ほど入っている籠はかなり重かったが、背負ってしまえばなんとかなった。
ルヴァが持っていた籠には肩掛けにできる紐もついていたので、そちらは右肩にかけて運ぶことにした。
「すぐ追いかけるんで、ちょっと大変ですけど頑張って。腰痛めないように気をつけて下さい」
言うだけ言ってリュカが全速力で駆け出していく。
その俊足は激戦に明け暮れた猛者らしく、見る見るうちにその姿が見えなくなった。
「さて、私も頑張って運んでしまいましょうねー」
よっこらしょ、と籠を右肩にかけて歩き出す。初めこそよたよたと覚束ない足取りだったが、すぐに重心をうまく取れるようになった。