冒険の書をあなたに
丁度いい湯加減のせいか結構な長湯になってしまったアンジェリークが、暑いと言って立ち上がる。
「わたしはそろそろ上がるわね。もうのぼせちゃう」
立ち上がった拍子にたっぷりと湯を含んだタオルが重さでずり下がった。
アンジェリークの小さな悲鳴に思わず目を向ければ、滑らかな背中が丸見えになっているのが視界に入り、ルヴァはどきりとして慌てて目を逸らした。
リュカはもれなく見ていたようで、感嘆の声を上げる。
「おっとー、これはいい眺め!」
ビアンカとルヴァが同時に睨み、突っ込みを入れた。
「リュカ!」
さもおかしそうにリュカが笑う。
「あっははは、もう……二人とも分かりやすいなあ! しかし結構な眼福でした。ご馳走様です」
ビアンカはにやけたリュカの顔目掛けて容赦なくお湯を引っ掛けて、片方の眉を吊り上げたまま一瞥して立ち去っていった。
湯上りに火照った体を外気に晒して冷ましながら、ルヴァは前からリュカについて気になっていたことを訊いていた。
「あなたもターバンを巻いていますけれど、普段はどういう巻き付け方をしてるんですかー?」
腰にタオル一枚の姿で長いターバンを持った成人男性が二人。今からふんどしでもつけるのかと間違えそうな光景が広がっていた。
「ああ、ぼくですか? ええとですね……最初ぐるぐる巻いてこの辺りから折り返して」
リュカが説明しながらさっさと巻きつけていくところをルヴァは興味深げに観察している。
「あーなるほど。やはり私の故郷の巻き方とはちょっと違うんですねー。幅もそちらのほうがやや広めでしょうか」
巻きつけ終わるとぱっと紫のターバンを取り去るリュカ。ルヴァのために実演してみせてくれたのだ。
「私のほうはですね、ここから始まって……この辺りで上向きに折り曲げるんです」
そう言いながらタオルの上からターバンを巻くルヴァ。
「へえ、結構違うものだなあ。……それにしてもルヴァのターバンは綺麗な布地ですよね。この刺繍の模様も細かくて上品だ」
片手で顔をさすりながら、リュカがターバンを誉めそやす。その言葉にルヴァは満面の笑みで答えた。
「これは先日ね、アンジェが私にくれたものなんです。刺繍は彼女の手仕事なんですよ」
ルヴァの照れてはにかむ顔が、エルヘブンで塔を見上げていたときと同じく恋する少年の雰囲気を纏っていて、リュカは思わず微笑んだ。
「うわー凄いなあ! もうほんと、それだけ愛されてたら手放せる理由が見つからないですよー。大事にしないとね」
大事にするのはターバンか、それともあの人のことかと逡巡して────どちらもだと思えた。
ルヴァも巻き終わったターバンをするりと解き、手にしたそれに目を落として呟く。
「ええ……本当に」
普段はこんなのろけたっぷりのやりとりなど、そもそも言う機会がない。
だがこの愛妻家、リュカの前ではごく自然に想い人への愛が口から止め処なく溢れ出す。
そしてここではそれを愚かだと罵る者は誰もいないのだ。
「そういえばルヴァは頭のタオルは外さないんですか? それじゃ暑いでしょう」
リュカは脱衣所──とは名ばかりの屋根があるだけの空間──に置かれた乾いたタオルでがしがしと髪を拭き始めた。長いので普段は括っているが、濡れた状態を見るとどうやらさほど癖のない髪質のようだ。
「はいー、故郷のしきたりで愛する人の前でしか髪を晒してはいけないものですから」
乾いたタオルを頭に載せてから、入れ替えるように下の湿ったタオルをするりと引き抜く。リュカ同様にがしがしと拭き、それから緩く巻きつけた。
「へええ。そいつはちょっと大変そうですね」
「慣れればそうでもないですよー。故郷の者は皆そうでしたしね」
脱衣所の籠に使用済みのタオルを放り込んで、二人はラフな格好に着替えて宿に戻っていった。
そして温泉の周囲には、チカチカとゆっくり点滅を繰り返す蛍の淡い光だけが残された。