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オリヴィエの剣と、剣の祈り

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 「いい国に、なったよな」
 それは問い掛けるというよりは、口にすることで慥かめ、自ら首肯を添えるような響きだった。
 窓の外には、晴れた空の下、陽気にけぶる城下町が見えていた。

 書類を押さえていた手で、傍に置いていた紅茶を口に運び、喉を潤した後にフレンはうっかりインク染みを作りそうになった書面からペン先を持ち上げて、手の甲を机上に傾ける。ハーブの匂いがすっと鼻を抜け、凝っていた気持ちがほぐれて、小さく息をつく。
 寝ていると思っていたユーリは、先ほどまでと同じようにこちらには背を向けていて、ソファの背に寄りかかった後頭部のてっぺんしか見えなかった。毛足長めに、それでも年相応に一頃より短く整えられたその黒髪が、微睡むように風にそよいでいる。黒というのは老化が目立ちやすい髪色だと聞いていたが、ユーリのそれは、今でも暖炉の黒炭のように密な黒で、ちっとも褪せてはいなかった。ときどき見つける白髪は、禿げたらどうするなどと冗談を言いながら、惜しげもなく引っこ抜いたりして、痛がったり、それをからかいあったりする。年齢的には、それがまだ、許されるはずだ。
 ふと、思う。
 やはり、疲れているのだろうかと。
 それはさっきと同じ、しかしながら、切ない予感だった。
 ユーリの口調はそんな風に感じさせる、妙に饐えたものが混ざっていた。そして、ひどく眠たそうでいた。最初にこの部屋に入ってきたときから、なんとなく拭えずにいた違和感は、そういうものからきていたのかも知れない。首を傾げて、フレンは愁眉を寄せる。

 「どうした?」
 フレンの言うことにユーリはじっと沈黙していた。
 卑屈な沈黙ではなかった。

 フレンはペンを立てかけ、ゆっくりと席を立ち上がって、陽だまりの中にあるソファに歩む。その背中に翻るマントの重さを、久しぶりに感じる。そこにあることをつい忘れてしまいそうになるのに、浅はかにも忘れそうになる前に、必ず感じる重さだった。
 「ユーリ」
 そう名を呼ぶのが、久しいような感触に、一瞬覚束ない思いをする。
 ああ、こういうのは、好くないのに。
 ソファの背面から見下ろすと、そこでユーリは背凭れに後頭部を預け目を閉じたままでいて、フレンに光が遮られて影が落ちると、目を開けて小さく顎を上げた。目蓋の下の青味の強い紫紺の瞳が、影に重なり濃さを増して、見上げてきた。いつも通りの、良く知った、それはフレンが勝手知ったる唯一の、人の目の色だった。

 彷彿とするのは、
 怜悧で、鋭く、
 不用意に触れると血が飛ぶ、抜き身の剣。

 変わらない。

 この眸は何も変わってはいないとフレンは思う。
 弱っても、衰えても、老いてもいない。

 けれど、何かが。

 「疲れたのか」
 そう問い掛けられたユーリがゆっくりと瞬くのを見て、フレンは目を細めていた。

 来るべきときというものは、必ず訪れて、そして去っていく。
 音もなく、それは風のように。

 皮肉にも、というには安易に予測できたことではあるが、この世界の存続をかけた戦いの向こう側には、すぐに新たな激動の時代が手薬煉(てぐすね)を引いて待ち構えていた。世界の存続が約束された後こそが、長い戦いの始まりだったわけで、あれから何年の時が過ぎたのかすぐには分からない。仮にその精確な単位を明らかにしたところで、過ごしてきた時間の積分は、きっと誰に分かるものでもないのだろう。それをわかっていて考えると、ただ漠然と、思うよりも長い時間であったのだと答えらしきを得てしまう。
 人の生の時間を思えば、長い、長い時間をかけた。
 誰もが平穏に、等しく暮らせる世の中を築くためには、必要とされる争いがあった。避けては通れぬ争いと、避けて通れたであろう争いを経て、泥のように渾沌としたその中からしか見出すことのできない、光らしきを探り続けた。血腥く、古き良き時代の匂いすらするものを淘汰し、他を挫いて立った場所は誰かしらの犠牲の上であると承知で、理想を築こうとしてきた。失敗もした。成功もあった。結果には必ずそのどちらかが伴ってついてきた。中途半端なものはなく、生半可なものはすぐに途絶えた。だからフレンはずっと騎士でありつづけて、ユーリはずっとその剣でありつづけた。それ以外には何もなかった。
 与えられた、或いは選び取ったその場に身を置いて生きた。
 理想に誓い、正義に約束し、使命を負った。
 そういう風に生きてみた。

 覗き込んで少し低くなったフレンの顔にユーリは手を伸ばし、指先で短い金髪を除ける。
 その蒼い目がよく見えて、目を細める。

 「少ぉしな」
 「いつから?」
 「つい最近だよ」
 「そうか」

 それは、奇妙なほど淡白なやりとりだった。
 フレンは手袋の上からでも分かる、他より皮の厚くなった右の中指の第二関節を無意識に親指で擦っており、それを見てもいないユーリに右手、と指摘されると少し情けない顔になった。前髪に触れるひやりとしたユーリの手にフレンは頬を軽く擦らせ、穏やかな声を紡ぐ。

 「僕たちは老いてしまったかな」
 その基軸になる時間の起点は、同じ理想を掲げたときだ。

 剣は剣でしかなく、剣が剣であるというだけでは、何の意味もない。
 そう話の猪口を切り、フレンの右手をとったユーリの左手のことを、フレンは思い出していた。とても昔の話だ。あの左手は手袋越しにわかってしまうほど冷えていたが、指の背は禁罰的なほどに白く美しく、冷たいのはそのためなのだろうと、ぼんやり思った。今だってユーリの手は冷たかった。半透明のものだけが持てる冷たさなのだと思う。この自らの手には、永劫許されることはない。

 「時間は充分費やせたんじゃねえかな」

 充分、と言うユーリの言葉を、フレンは吟味するようにひとこと繰り返した。
 ユーリはそんなフレンを見上げて小さく微笑っていた。

 「長いこと、お前の傍にいれたろ?」
 伸ばされるフレンの右手を、ユーリは外側から掴まえ、閉じた目の上に持っていく。
 フレンはただそんなユーリの所作を見つめていた。
 「オレとおまえが思ってたより、ずっと、長く」

 (剣は飾りじゃなく、振るうものだ。振るうには人の手がいる。そして、その手は絶対に、愚者のものであってはならない。だからこそオレは、お前の剣でありたいんだ。絶対に折れない。絶対に諦めない。絶対に裏切らない剣でいる。だからお前は、振るう手であってくれ――――――。)

 理想から遠すぎる現実に気付いた。
 気付いたとき、共にいた。
 そう言って、フレンの右手をユーリは強く握り締めた。
 その仕草は祈るようだった。
 剣がふたつと必要ないことはわかっていた。
 必要なものを少しずつ揃えてゆかねばならなかった。
 覚悟も、決意も、数瞬だけユーリが先だった。
 すべてはあのときだ。
 もうどう足掻いたって、ユーリのいるその立ち位置に立つことはできないのだとフレンは思い知り、誰かに、否、誰でもないユーリに補って貰わなければならないのだと理解した。もはや望んだような補い方はできず、望む補い方をしてやれなくなっていたことに気がついた。