時津風(ときつかぜ) 【一章】
問われた赤司がふいに言葉を失った。その表情にごく僅かだが気まずさのようなものが滲んだのを感じ、実渕は慌てて両手の平を胸の前で振った。
「あ!いいの、忘れて!ちょっと思っただけ。真面目に答えないでちょうだい、征ちゃん。私が不躾だったわ。」
「いや・・・。」
赤司はそう呟くと、ふっと息を吐いた。
「構わないよ。別に隠すものでもない。」
そう言って袋の中から一枚の紙を取り出すと、赤司は実渕の前に手を差し出した。微かに色褪せた半紙がきれいに折りたたまれている。袋には他にも数枚、同じ様に折りたたまれた半紙が入っているようだった。実渕は躊躇った視線を赤司に向ける。だが赤司が促すように微笑んで見せたので、実渕は赤司の手から半紙を受け取った。かさりと乾いた音を立てて広げてみれば、流れる様な黒々とした墨文字がびっしりとそこに綴られている。
「え、まさか・・・征ちゃん、これ・・・」
「そう、般若心経。毎年母の命日が近付くと写経をしていた。」
赤司の言葉に実渕は思わず絶句した。目の前の年下のチームメイトがただ者ではない事は充分に分かっていた。将棋や囲碁に加え、ピアノ、ヴァイオリン、乗馬や書の嗜みがあるという事も知ってはいたが、まさか齢十七を前にして写経まで嗜んでいたとは思ってもみなかった。完全なる想定外、いや想像外だ。
だがそれ以上に実渕が驚いたのは、赤司が『母』という言葉を口にした事だ。普段、赤司はほとんど家族の話をしない。家庭が家庭なだけに気安く話せる訳でもないのだろうが、赤司の口が重いのはそのせいだけではないのを実渕は何となく感じていた。だから今、こうして赤司の口から母親に繋がる話をされたのは正直、意外だった。無言のままの実渕に、赤司が怪訝な顔をする。
「──実渕?」
「あ、ごめんなさい。」
実渕は我に返る。何も言うまい。実渕はそう心の中で呟くと、訝しむ赤司の視線を感じつつ改めて半紙に綴られた般若心経を見つめた。流れる様な手跡はとても高校生のものとは思えない。
「征ちゃんは出来ない事は無いんじゃないかと思うほど何でもこなす人だけど、それにしても見事ね。高校生の書とはとても思えないわ。私、こんな流れるような般若心経を見たのは初めて。文字って美しいのね。やっぱりお母様への想いがこもっているからかしら。なんだか感動しちゃった。」
すると赤司は一瞬考え込む様な表情を見せた後、気まずそうな顔をした。褒められて恥かしいのだろうか。彼にしては珍しい、そう実渕が思っていると赤司は実に言いにくそうに実渕にむかって呟いた。
「そう言って貰えるのは嬉しいが、実渕・・・それは、俺が小学五年の時に書いたものだよ。」
一瞬、赤司の言っている言葉の意味が呑みこめなかった。
「───え?」
実渕の目が見る間に点になる。
「えっ・・・えーーっ!?小学五年って・・・えっ、うそっ、嘘でしょう?!」
そう叫びながら思わず手元の紙をもう一度見る。淀みなく綴られた墨文字は全て草書体だ。楷書と違って見慣れない書体だが、それでもこの文字が並々ならぬ手跡だと言う事くらいは実渕にも分かる。部誌などで普段目にする彼の字も確かに歳に似合わぬ大人びたものだったが、まさかこれが小学生の手によるものとは。信じられぬ思いでよくよく見れば、確かに六年前の日付と『赤司征十郎』の名が記されている。
「嘘ではないよ。書道は小学校に上がる頃には既に始めていたから、五年の時の手跡ならそんなものだろう。」
赤司にそうあっさりと言われ、実渕はハタと思い返す。そうだ。赤司征十郎は嘘をつかない。いや、つく必要がない。嘘をついてまで何かを誤魔化す必要など無い程、彼は完璧というものを体現し続けて来た男なのだ。例えチートと揶揄されようが、実際やれば出来てしまうのだから仕方がない。
「それは母が亡くなった日の夜に書いたものだから、特に記憶に残っているんだ。油断をするとつい墨を滲ませてしまいそうになってね。初めてだったせいもあるが、書き上げるのに随分時間が掛ってしまって、気が付いたら夜が明けていた。」
そう言って決まりが悪そうに笑う赤司の口調は何気ないものだった。だがその言葉の意味に気付き、実渕がまじまじと赤司の顔を見詰める。
「・・・久し振りにこうして見ると文字も随分と乱れているな。さすがに気恥かしいから、そろそろ仕舞うよ。」
実渕の視線を感じたのか赤司は自嘲気味にそう言うと、立ち尽くす実渕の手から静かに半紙を外した。俯いた赤司の表情は窺えない。だが半紙が手を離れるそのほんの一瞬、そこだけ楷書で綴られた最後の一行が実渕の目に留まり、焼き付いた。
今年が赤司の母親の七回忌にあたるのならば、彼が母を亡くしたのは十一の時という事になる。
綴った墨文字の上に涙が落ちれば、当然墨は滲む。恐らく赤司はそれを堪えながら、自分の元を離れあの世へと旅立って逝く母の為に般若心経を綴ったのだろう。一晩中経文と向き合うその幼い背中が実渕の脳裏に浮かんだ。
「征ちゃん、あの・・・ごめんなさいね。」
ぴくりと赤司の手が止まる。だが実渕はそう呟やかざるを得なかった。赤司にとっては触れられたくないであろう過去に、無遠慮に踏み込む形になってしまった事を申し訳なく思った。赤司は黙って半紙に落としていた目を伏せた。だが一拍置いてその口元に緩い笑みを作ると、元通りに折り畳んだ半紙をそっと数寄屋袋に仕舞いながら彼は静かな声で返す。
「お前が謝る事ではないよ。言っただろう、別に隠すものではないと。見せてもいいと思ったからそうしたんだ。この時の俺も、間違いなく俺自身だからね。幼く未熟だった自分への気恥かしさは無論あるが、未熟なのは今も変わらないんだ。今更取り繕っても仕方がない。」
どうして・・・そう言い掛けた言葉を飲み込み、実渕は黙り込んだ。まただ、と思った。このところの赤司は以前なら決して言わないような言葉を口にする。そしてそういう時の赤司は決まって、達観した表情でいながら胸の内に何かを抱えているような翳りを見せた。
赤司が未熟だなどと、実渕は思った事がない。それは実渕でなくとも、赤司を知る者ならば誰もが同じだろう。与えられた才能に甘んじず、彼は周りの誰よりも努力していた。取り乱すことなど知らぬかのような堂々とした振る舞いや、高校生とは思えぬほど達観した物事の捉え方に驚きこそすれ、未熟と感じた事は無かった。むしろ彼はあまりにも出来過ぎていた。いわば『完璧』だった。例えどれだけ歳上の者でも、赤司に諭されれば何も言い返す事は出来ないだろう。だがいかに優れていても、赤司征十郎が生きてきた時間はまだ僅か十六年、この冬でようやく十七年になるに過ぎない。赤司を見ていると実渕は、彼がどこか生き急いでいるように感じてしまう事が度々あった。
昨年末のWC決勝戦で誠凛高校に敗北を喫して以来、赤司は考え込む事が多くなった。しかしWCが終わってふた月程経った頃には、前に進む為にも悩んでいる暇などないと言っていた。だからあの時はこんな赤司を見る事になるとは想像すらしていなかった。
作品名:時津風(ときつかぜ) 【一章】 作家名:美月~mitsuki