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美月~mitsuki
美月~mitsuki
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時津風(ときつかぜ)【四章】

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 淡々と、不自然なほど静かに胸の内を吐露してゆく赤司の声。だが膝の上で握られた彼の両手は微かに震えていた。誰にも話さず、ただじっと胸の内に押し殺してきた彼の声は降り始めた雨粒のようにその口から零れ落ち、次々と波紋を広げてゆく。その時、彼女は目の前の少年のすすり泣きを聞いた様な気がした。端然とした表向きの彼を見ているだけでは決して聞く事の出来ない、声なき泣き声。真正面から人を見据える力のあるその目を今は伏せ、夏の日差しの中に座る赤司の姿が彼女の脳裏にある幼い息子のものと重なる。優しくて辛抱強かった息子。母親である自分が喜ぶと、まるで自分の事のように嬉しそうに笑う子だった。まだ幼く、あの時の彼には伝えられなかった母親としての想い。それが次から次へと溢れて来る。この静謐な空間でこうして彼の話に耳を傾けられる機会を得られた事に彼女は今、心から感謝した。
「本当に───生きるというのは大変な事です。」
 ふいに響いた彼女の声に赤司の肩がぴくりと跳ねる。ゆるゆると顔を上げると、彼女の遠くを見つめる横顔に視線がぶつかる。何かを思い返すような表情がそこにはハッキリと浮かんでいた。彼女は中庭に植えられた、すっかり葉だけになったナツツバキに目をやりながら赤司に説いて聞かせるようにゆっくりと話し始めた。
「『四苦八苦』という言葉がありますね。この世に生を受け、生きて、そして老いや病気でやがて死んでゆく・・・それを全うするだけでも長い道のりなのに、その間に直面する様々な苦しみ──愛するものと別れる事、反りの合わない嫌な人とも出会わなければならない事、欲しいものが手に入らない事、自分の煩悩に焚きつけられる事で生じる様々な悩みや不安を経験する事・・・人が一生のうちに出会う苦しみは数限りなくあります。あなたが初めての写経で感じた事も、今まさに抱えていらっしゃる悩みもそのうちの一つです。言葉で捉えると何でもない事のように感じますが、実際にそれらを体験してみるとその一つ一つがいかに重たさを持ったものなのかが分かると思います。指を切る、と想像するのと実際に指を切った時の感覚はまるで違うでしょう?それと同じことです。勿論、苦しみというのは重い病気を患ったり、誰かと死に別れるような事だけではありません。欲しいお洋服や靴があるけれど高価で手が出ない、苦手な人の前でも笑顔を作らなければならないというのも『苦しみ』です。苦しみというのは何も特別な事ではなく、日々の暮らしの中の至る所にあります。生きるという事はそういった様々な、数限りない苦しみの一つ一つを体験してゆくという事ですから、それがどれだけ大変なのかは今のあなたならお分かりになる筈です。」
 彼女は庭先から赤司へ視線を戻すと言った。彼女の視線を受け赤司は深く頷く。初めて敗北を知った時の胸の痛みが瞬時に蘇った。物事を頭だけで知るのと、実際にそれを体験するのとでは全く違う事を赤司は学んだ。この世には様々な苦しみがあるという事も。
「でもね。ここで忘れてはいけない事が一つあるの。」
 彼女はそう言うと、まるで母親が息子に大事な話をするかのように赤司の瞳を覗き込んだ。赤司は彼女のその瞳を真剣に見つめながら、黙って彼女の次の言葉を待つ。それはさながら母親の言い付けを守ろうとする子供の顔だった。
「それは、生きている間に起こる出来事をどのように感じるかは全て『自分の心』が決めているという事です。もちろん『苦しみ』に対しても。」
「自分の・・・心・・・」
 その言葉を噛みしめるように赤司が呟く。そんな彼を見ながら彼女は更に続ける。
「写経をされるあなたならご存知かと思いますが、般若心経の中には『色即是空(しきそくぜくう)』『空即是色(くうそくぜしき)』という二つの言葉があります。」
「『色(しき)』とは物的現象、つまり《形ある物》の総称で、『空(くう)』とは何もない状態、捉われない状態。『色即是空』とはこの世で形あるものは本来何もない状態、捉われない状態である、という事。自分が《在る》と認識すれば存在し、《無い》と認識すれば存在しない───」
 赤司の即座の答えに彼女は頷く。
「そう、仰る通りです。この世に存在している物的なものは、全て自分の心によって意味付けがされます。何かに集中している時、周りのものが目に入らないという事がありますね。それはその時の自分の心が目の前のものに向いていない、つまり《無い》と思っているから目に入ってこないだけ。つまり心の認識が現象化するのです。」
 そこで彼女は苦笑した。
「・・・あなたには本当に驚かされますね。そのように様々な事を学ばれているのなら、今更私がお伝え出来る事など何もないのではないかしら。」
 だが彼女の言葉に赤司は首を振った。
「いいえ、そんな事はありません。現にこうして僕は今、迷いを抱えてうろうろと彷徨っています。たとえどんなに知識があっても、それはあくまで知っているというだけの事で真に理解している訳ではない。今の僕に足りていないのは、それをうまく活かせるだけの経験です。差し支えなければもっとあなたのお話しを聞かせて頂けませんか。普段なかなか意識する事のないこうした話題はとても興味深いですし、今の僕にはあなたの言葉が必要に感じられます。」
 そう言って真摯な目を向ける少年の顔を彼女はしみじみと眺めた。赤司の視線は真っ直ぐで、強い光を湛えるその瞳には一切曇りがない。幼い息子の面影がそこに重なる。思わずその頬に手を伸ばしそうになるのを堪え、彼女は微笑んだ。それはひどく嬉しげであり、同時に寂しげでもある複雑な笑みだった。
「では、もう一つの『空即是色』はどうでしょう。『色即是空』とは対になる言葉ですけれど・・・お分かりになるかしら。」
 問われて赤司は考え込んだ。そのままで考えれば、空は即ち形あるものである、という事になるだろう。だが何もない、捉われない状態を指す『空』が形あるものであるという概念が理解出来ない。答えを導き出そうと尚も考える赤司をしばらく彼女は黙って見ていたが、やおら呟いた。
「ナツツバキ───すっかり葉だけになってしまったようですね。」
「え?」
 突然違う話を振られ、赤司は戸惑いながら彼女の顔を見る。彼女の視線は中庭に植わった一本の木に向けられていた。彼女の視線を辿り、その庭木を見ながら赤司が言った。
「ああ・・・。どうやらそのようですね。ナツツバキの花の季節は先月あたりまでです。あれは落葉樹ですから、もう少しすると葉も落ち始めるでしょう。」
 答えて赤司は彼女に視線を戻した。だが彼女の目が何か言いたげに自分を見ているのに気付き、怪訝そうに眉を寄せる。彼女は黙って赤司を見据えたまま、目の前に座る彼を自分の体を挟んだ反対側へと招いた。訝(いぶか)しみながらも赤司は立ち上がり、彼女に示された場所まで移動した。言われた通りに床に腰を下ろした瞬間、その目を見開く。
「あ・・・。」
 思わず声が漏れた。葉だけになった筈のナツツバキの枝が一輪だけ白い花を付けていた。信じられないといった表情で思わず振り返る赤司に彼女は笑って頷く。