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美月~mitsuki
美月~mitsuki
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時津風(ときつかぜ)【四章】

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「私からはずっと見えていましたけれど、あなたからは見えていなかったでしょう?座る場所が変わると、見えるものも変わりますから。」
 赤司がハッとしたように彼女を見上げる。
 そうか・・・そういう事か。
 彼女は赤司のその表情を見てにっこりと笑顔を見せる。
「どうやらお分かりになったようですね。そうです。『空即是色』とは、自身の心が《無い》と思っている間も形あるものは実体として他者の目に存在し続けているという事です。少し難しい教えですが、ここで大切な事が二つあります。一つ目は、形あるものの認識さえ、自分自身の心のフィルターを通して初めて意味があるということ。全てはあなたの心のフィルターを通して見えている。二つ目は、あなたと他者は異なるということ。あなたの心のフィルターを通して観た世界と、他の人がその人のフィルターを通して観た世界は一致しません。他人をコントロールしたり、他人の心を見透かしたりすることは元来できない。だからこそ他者と自分は違う存在だと認め、尊重する事が大事なのです。あなたの向きから花が見えていないからといって、『花はある』と言う人を否定する事は出来ません。」
 その瞬間、彼女の言葉がまるで引き金になったかのように何かが弾けた。自分の中で今までパズルのピースのように断片的だったものが、次々と浮かび上がって来る。赤司の意識がこれまでの事を猛烈な勢いで辿り始めた。

 自分に見えていないからといって、見えている者を否定する事は出来ない。
 かつてのチームメイト、黒子テツヤの顔が浮んだ。
 
 『赤司君は、バスケットは好きですか。』
 『勝つ事以外に大事なものはないのでしょうか。』
 
 あの時の彼の問い掛けに対し、自分はこう答えた。
 
 『好きか嫌いかという感情は勝つ事に必要か?』
 『勝つ事以外に大事な事など、無い。』
 
 自分の目は大切なものを何一つ映していなかった。
 形ある物の認識さえ自分の捉え方によって変わる。
 ならば、形を持たないものはどうか。
 思想や信念、概念、感情。
 何が正しく、何が間違っているのか。何が当たり前で何が当たり前でないのか。
 全ては空。これが正解だというものは一つもない。ただ、自分の心が決めている。
 そこまで考えた時、赤司の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
 『是諸法空相(ぜしょほうくうそう)』。
 写経を始める前、ここの院主が言った言葉だ。
 この世の森羅万象は全てが『空』。心によってその存在や在り方が変化する特質を持っている。
 自分の心、心のフィルター。
 では何故人は《無い》と感じたり《在る》と感じたりするのか。
 季節外れの花を俺は《無い》と認識し、彼女は《在る》と認識した。
 その違いは何だ、一体どこから生じる・・・?

『座る場所が変わると、見えるものも変わりますから。』

 赤司の中でカチリとパズルのピースが嵌る音がした。その瞳が大きく見開かれる。

「───向き・・・」
 
 赤司の薄く開いた唇から微かな呟きが漏れた。
 全てを決めているのは、自分の心・・・
 
「心の向き、か ───。」
  
 その瞬間、全てが繋がった。
 
 俺の中には様々な恐れや不安が存在していた。
 だが俺はそれを認めようとしなかった。認める事は出来ないと思っていたからだ。
 不安や恐れを訴えれば父に否定され、『赤司の名に相応しくない人間』というレッテルが貼られると思い込んでいた。
 そしてそれらの不安や恐怖を埋める為に勝つ事に執着した。
 勝てば自分は正しいと認められ、不安や恐怖に目を向ける必要がなくなると考えた。
 何かに執着し、何かで心の隙間を埋める状態では、失う事、無くなる事への不安や恐怖が常に付き纏う。つまり俺はいつも不安や恐怖という心のフィルターを通して物事を見ていた事になる。
 走っても走っても満たされない気持ちは俺の中の不安や恐怖、自分の在り方に対する疑問の現れだ。その気持ちはいつしか焦りと不満を生み、更なる不安と恐怖を呼ぶ。次第にそれが自分でも気付かぬうちに膨れ上がり、紫原との対戦をきっかけに遂にピークに達した。俺は無意識下で、自分を不安にさせ恐怖心を煽る紫原を恐れ、そこから怒りが湧いた。恐怖心は怒りを生み、相手を攻撃させる。だがその怒りの本当の原因は彼ではなく自分自身の中にあるものだった。
 全ては自分の心が見せたもの。
 勝てば全て正しく、負ければ全てが否定されるという概念も、他の誰でもない自分が創り上げていたものだ。あらゆる事で人に勝たねばならないといくら父に言われても、自分がその概念を受け入れさえしなければそれで済んでいただけの事。自分が在ると思えば存在し、そうだと思えば俺の目に映る世界ではそうなる。
「『空』という思想はまさに仏の教えの本質です。あなたがこの世に生きて直面する様々な出来事を、苦しい、哀しい、腹立たしい、嬉しい、楽しいと感じているのは全てあなた自身の心。だからこそ心の向きが大切なのです。心の向きが変われば、見えるものは変わってきます。正しいと思っていた事が実はそうではないのだと気付き、苦しみでさえ感謝や喜びに変わる。自分の弱さや過ちだと感じるものも、自分が見方を変えればまた違うものになるのです。」
 だから院主は言ったのだ。『自分の心を治めろ』と。
 心が乱れていれば、そこに映るものもまた乱れる。欲にまみれれば欲の対象となるものを目に映し、怒りに捉われれば全てが腹立たしく見えてくる。だからこそ自分の心がどこを向き、何を見ているのかを意識する必要があるのだ。何かに捉われた心では、また新たな執着を生みだしてしまう。
 真に従えるべきは周りの人間などではない。自身の心だ。
 それまで赤司の様子をじっと見守っていた彼女が口を開いた。
「あなたは自分の弱さがもう一人の自分を生んだ、そう仰いましたね。」
「──はい。」
 口元を引き結び、厳しい表情で赤司は頷く。
「では、それも心の向きを変えて眺めてみましょうか。あなたは今までずっと勝つ事を目指し、心が悲鳴をあげるまで走り続けてきた。でもそれは一体、誰に勝ち続ける為だったのでしょう。」
 赤司の目が見開かれる。誰にだと?そんなの、周りの人間全てに決まっている。誰にも負ける訳にはいかない、ずっとそう思っていたのだから。
「そう、あなたはずっと思って来たはず。誰にも負けられない、と。」
 彼女の言葉が頭の中に響き渡る。そうだ、誰にも負けられなかった。誰にも・・・。
「申し上げた筈です。あなたが気付いていなくても、あなたの心は全てを知っている。現にあなたは既にその答えとなる言葉をご自分で口にされています。ただ気付いていらっしゃらないだけ。」
 一体何を言ったというのだろう。赤司はこれまで自分が彼女に話した事を振り返る。
「あなたが生まれた時からずっと一緒にいる唯一の存在。何処へ行っても、誰と一緒にいても、何をしていても、それは一瞬たりとも離れる事はありません。いつもあなたと一緒です。そう、たとえ死んでも。」
 たとえ死んでも離れる事の無い、唯一の存在。そう聞いて、それまで俯いていた顔をそろそろと赤司は上げた。胸の鼓動が早くなる。