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「FRAME」 ――邂逅録1 不易編

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 コンクリートの壁に叩きつけられ、男はおとなしくなった。
「さて……」
 パンパンと手を払い、机の上に身体を起こし、呆然としている士郎に向き直る。
「何をしている、貴様」
「アンタ……」
 驚きに満ちた士郎の表情に、だんだんと恐れのようなものが混じってくる。
「…………服を、どうにかしろ」
 静かに言われ、士郎はのろのろと衣服を整えはじめる。その手が震えていることにエミヤは気づき、その手首を掴んだ。
「薬はなんだ?」
「し、知らない。葉っぱも、粉も、ここでは手に入らない」
「まったく……」
 何を仕込まれたのかもわからなければ対処のしようがない。とりあえず、ここから離れた方が得策だと判断し、エミヤはようやく衣服を整えた士郎を肩に担ぐ。
「ちょっ、おい? 何してんだ!」
「ここにいては、そいつのような輩がまた来るのだろうが」
「っ……」
 押し黙った士郎に、やはりか、とエミヤは嘆息する。
 口淫をさせる仕草も慣れたものだった。ということは、先ほど伸した男のような奴以外にも、そういう相手がいるのだろう。
 そう判断したエミヤは下水溝を歩き出し、やがて川へと出る。
 真昼の太陽が水量の減った川を照らしている。
 士郎を川原に下ろすと、腕で目元を覆っているのに気づく。
「どうした」
「ああ、久しぶりで、眩しいだけだ」
 首を捻る。士郎の言い分がよくわからない。
「ずっと、あそこにいるからな。出るのは夜だけだし」
 付け加えるように説明した士郎は目頭を揉んでいる。
「不健康極まりないな」
「アンタに言われたくない」
 不貞腐れたように言う士郎に、少しだけ昔の表情が見て取れた。
 白日の下で見ると、士郎はずいぶん、大人になったように見える。琥珀色を宿した大きめの目はやや鋭く、丸みのあった頬は細面になり、身長も伸びているようだ。だが、明らかに細いと感じる。それに、髪に隠れたままの右目と暗がりの中で見えた右脇腹の傷痕も気になる。
「貴様、いったい、何をしている……」
 呆れて言えば、士郎は顔を背ける。
「……何って、アンタに関係あんのかよ?」
 少し押し黙ってから、やがて見上げてきた士郎に、エミヤは過去の感慨に耽った。琥珀色がいまだに健在だ。少しだけほっとするが、右目は髪に隠れたままである。
(見えていないのだろうか……)
 疑問は浮かぶが、それでは右側が見えないだろう、とは敢えて口にしなかった。
「まあ、貴様が何をしていようと、私には関係ないがな」
 言いながら、座り込んだ士郎に向き直り、どうしてくれよう、と思案する。
 エミヤは、全く考えていなかったのだ。とにかく、あの場をどうにかしようと思っただけで、後のことを何も思いつかない。
「どうする?」
「は?」
 案の定、士郎に訊き返され、眉間にシワを刻んだ。
「どう……って……?」
 困惑していた士郎が、やがて笑いだす。
「む、貴様……」
「っくく、わ、悪い……っ、ふは……っ、ははっ、アンタ、なに? なんにも考えてなかったって、こと?」
 笑いながら訊く士郎にムッとするが、その通りなだけにエミヤは反論できずにいる。
「変なの」
 やっと笑いがおさまった様子の士郎がエミヤに言う。
「アンタの“仕事”はなんだ?」
「この組織の殲滅だ」
「ああ、そうなんだ」
 エミヤの答えに、士郎は頷いた。
 自分が所属している組織を消すと言っているのに、その興味の無さはなんなのだ、と困惑する。
「別に、俺が作った集まりじゃないし」
 エミヤの戸惑いを見透かしたように、士郎は川面に視線を移す。
「しかし、貴様は、あそこにいたのだろう?」
「いた、ってだけ。俺が何を指示したってことでもない」
「ならば、貴様はなんのためにあの集団にいる」
「さあな……」
 苛立ちを隠さずにエミヤは問うた。だが、士郎は、ぼんやりと川を見たままだ。
(どうしてしまったのだろうか、こいつは……)
 空っぽだと感じていた。夢を追うことも、正義を振りかざすことも一切ない。何も詰まっていない空洞のようだった。
「潰すんなら、俺も戻った方がいいか?」
 さらに士郎は不可解な質問をしてくる。
 あの集団が潰されると知りながら、そこに戻る方がいいか、と訊いてくる。エミヤが戻れと言えば、戻りそうな雰囲気だ。
「貴様、いったい……」
「別に戻ってもいいぞ。あの集団を潰すのなら、俺もそれに含まれてるんだろうし。俺を仕損じて、あんたの“仕事”が完遂しないって言うんなら、戻るよ」
 ヨロヨロと立ち上がって、士郎は先ほど出てきた下水溝に向かおうとする。
「待て」
 その腕をエミヤは引いた。
 何をしているのか、とエミヤ自身、疑問に思っていた。
「衛宮士郎、お前は、どこかおかしい」
「ああ、うん。知ってるよ、そんなこと」
 エミヤを見上げていた士郎は、ふい、と顔を逸らし、ぽつり、と呟いた。


「っ……、は……っ……」
 苦しげに熱い息を吐き、膝を引き寄せたのを感じた。
 エミヤは日干し煉瓦の壁にもたれ、腕組みし、座ったまま目を閉じている。
 眠ってはいないが、エミヤはやるべきことの前に、現況について考えをまとめたかった。
 先ほどから、こうして眠ったような状態で瞑想めいたことをしている。
「やばいな……、ドラッグっていうより、これ……」
 士郎にはエミヤが眠っているように見えるのだろう、独り言が漏れている。
 パチパチ、と木の焼ける音が穴の中に響く。
 ここは、壊された遺跡だ。数年前にテロ組織が威勢を張るために破壊した。
 破壊され、砂に埋もれかけた遺跡には、穴の開いた建物跡が残っている。
 ここは、行き場を失くした者たちが雨風をしのぐために使っている。あちこちの穴には火が灯り、生活している様子が見て取れる。二人がいるこの穴にも誰かが生活していた痕跡が残っていた。
 野宿も考えたが、砂を巻き上げて吹く風を遮るために、エミヤはこの建物跡の穴に入った。
「っ……」
 唇を噛みしめた士郎は身体を引き寄せ、さらに小さく背を丸めた。夏だというのに、エミヤが調達してきた毛布を握りしめて身体を包んでいる。
「バレは……しないだろうけど……」
 エミヤは身動きはせず、目だけを開けた。
 乾燥しきって、脆くなった日干し煉瓦は触れるだけで砂が付く。そこに士郎は頭を預けている。
「なんで、出会っちまうかな……」
 熱いため息とともに士郎の声が聞こえた。
 どういう意味かと考える。まるで会いたくなかったとでも言っているように聞こえる。あんな組織にいれば、そう思うのも仕方がないかと、呆れながら思った。
「何してんだろ、俺……」
 震える声にエミヤは顔を上げる。士郎の辛そうな横顔が見えた。やけに落ち着かない。そんな顔を見たくない、となぜか思う。
「おい」
 思わず呼びかけると、士郎は僅かに瞼を上げる。返事をしない士郎に、エミヤは立ち上がった。
「おい、衛宮士郎」
 肩に手を載せると、びく、と士郎の身体が跳ねた。
「おい? 大丈夫なのか?」
 士郎は驚き、居心地の悪そうな顔をして頷く。
「全く大丈夫ではないと思うが?」
「そ、のうち、よくなる、だろ」
 うまく舌が回らないようだ。
「状態から見ると、貴様は、媚薬を飲まされたのではないのか?」