「FRAME」 ――邂逅録3 別離編
ぽんぽん、と肩を軽く叩くと、エミヤは士郎を振り向く。
「したくなったから、で、いいんじゃねぇ?」
ぽかん、としたエミヤに士郎は笑う。
「士郎? 怒っているのではないのか?」
「怒ってねえよ」
エミヤの頬を両手で包み、そっと口づける。
「俺も、したくなったから、おあいこな」
エミヤは呆気に取られていたが、すぐに、うれしそうに笑った。
エミヤは突然キスをする。
何度かそういうことがあったため、士郎はエミヤに率直に訊いた。
“キスが好きなのか?”と。
だが、違う、という答えが返ってきた。
今度は逆にエミヤから、キスが好きなのか、と訊かれ、士郎はエミヤとするキスは好きだと答えた。
エミヤがまた不機嫌に何か反論でもしてくるか、と期待していた士郎は、手痛い反撃をくらってしまった。
「お前は、他にもたくさん愉しむ術を知っているようだしな」
淡々と告げられた言葉に士郎は衝撃を受けた。
(なに言ってんの、こいつ……?)
まるでキスなどやり慣れているだろう、と思われている口ぶりだった。
エミヤと目が合って、その鈍色の瞳には、微かな蔑みの色が混じっている。すぐに士郎は目を逸らした。
(そっか……)
エミヤには、あの下水溝でのことを見られていたのだ。その後に、薬でおかしくなった身体を介抱してもらった。
「ああ、まあ、そうだよな……」
そう思われても仕方がないことをしていた。反論の余地はない。何を言っても言い訳にしかならない。あの下水溝での嫌なことを思い出してしまって、士郎は気が滅入ってきてしまった。
居間を出て自室に向かう。右脚が重くて仕方がなかった。
「っ……」
動揺をすると魔術回路と魔力の流れが不具合を起こす。調整を済ませて、魔力がうまく回路を流れていくようになった今でも、内面の動揺というものが、魔力と回路に悪影響を及ぼし、身体は動かなくなり、酷い吐き気をもよおしてくる。
だから士郎は常に冷静さを保とうとし、内面の揺らぎを起こさないように何事にも入れこまずにやってきた。
だが、エミヤを相手にしていると、それが難しい。どうしてもエミヤのことになると冷静ではいられなくなる。
衛宮邸に着いた翌日もそうだった。物干しの側に立つエミヤを見て、こんな光景がいつまでも傍にあったら、と思った。戦うわけでもない背中に、言いようのない気持ちに、鼓動が跳ねた。
調整が終わっていたにも関わらず、回路も魔力の流れも一気に乱れてしまったのだ。おかげで派手に転び、右膝を小学生のように擦りむき、散々な目に遭った。
脚を引きずりながら自室について、布団に横になった。少し吐き気も出てきている。冷たい汗が背中を伝う。
「は……、落ち着け……」
深呼吸を繰り返し、士郎は自身を落ち着けることにつとめる。いくらか吐き気がおさまったころ、足音が近づいてきて、障子が開いた。
「士郎?」
すぐに答えられず、このまま寝たフリを決めこもうかと思うが、エミヤが肩を揺すりながら、何かを言おうとするので諦めて返事をした。
「士郎、……その……」
エミヤの声が途絶える。いまだ肩を揺するエミヤの手が温かい。
思い出したくない光景が脳裡をよぎる。
「だから、なんだよ!」
苛立って振り返り、エミヤを睨みつけたが、その顔を見上げ、士郎は何もかもがどうでもよくなった。
苦しげに、不安でいっぱいな顔で、縋るような鈍色の瞳は士郎をただ見つめている。
(ああ、もう!)
捨て犬みたいな顔をするな、と言いたいのを我慢して、士郎は身体を起こす。
「士郎、そ――」
エミヤが何かを言う前に、その唇を塞いだ。
「俺は好きって言ったろ、キス」
呆然とするエミヤに笑って言えば、
「……私も、だ」
とエミヤは答える。
お前とするキスが好きだ、と言ったエミヤに士郎は笑った。
うれしいと思った。だが、悲しいとも思った。
目の前にいるのが、あの時のエミヤではないと士郎にはわかるから、どうしても、思い出してしまうから。
(あの時のエミヤは、俺を求めたり……しないんだ……)
エミヤの腕に包まれて、その温もりの心地よさを感じながら、士郎は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
今、真っ直ぐに士郎を望むエミヤと、過去に出会ったエミヤは同一であって、別のものだという定義が士郎には振り払えない。
それでも、ともに歩いていけば、いつか自分の中で今のエミヤが何よりも大きな存在になっていくのではないかと、そんな淡い期待を持った。
だから、旅に出ようと決めたのだ、今のエミヤとともに過ごす時間を増やそうと。
(俺は……、ずるいか……?)
エミヤの背に手を回すと、締めつけるように抱き込まれる。
少し顔を上げるとエミヤが覗き込んでくる。そのまま口づけられた。
熱いキスだと感じていた。飲み込まれるように甘く、噛み砕かれるように激しく、捕食されるようにエミヤに翻弄されていく。
(全部、奪えばいい……)
魔力を吸い取るように、このままエミヤに何もかも奪われてしまえば、幸せなのではないかと……。
(バカな、ことを……)
吐息の合間に自嘲を紛らせ、士郎はエミヤに全てを委ねた。
「わかっていたんだ……、どだい無理だってさ……」
士郎を背後に庇うエミヤの背中に、呟いた。
「士郎?」
振り返ったエミヤに、士郎は笑顔を向ける。
「潮時だ、エミヤ」
「何を……」
言いかけたエミヤが片手を畳につく。
「エミヤ!」
「っく……」
歯を喰いしばるエミヤの顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「戒められているだけだ、問題はない」
苦しげに答えるエミヤは、魔術師の戒めに抵抗しようとしている。
「やってくれたわね、士郎」
冷気を伴った、よく知る声が居間に響く。
「……意外と早かったな、遠坂」
「私を騙そうなんて、百年早いわよ。弟子に出し抜かれるほど、私は甘くないわ」
「元、だろ」
士郎は口端を上げて、ぼそり、と反論する。
エミヤを支えるように回された士郎の右腕を見て、凛はひょいと眉を上げる。
「身体、動くんじゃない」
「見逃したのは、お前たちだろう? 俺は何も言ってない」
見返す士郎の瞳は、凛の知るものではなかった。思わず半歩引いてしまった凛は、ムッとしながら魔術師たちに指示を出す。
「勝手をやってくれる……」
ため息交じりに言った士郎は、エミヤの胸元に左手を当てた。
「士郎?」
困惑気味にエミヤが訊く。
「遠坂、部下の躾くらいちゃんとしてくれ。日本家屋は土足厳禁だって」
どうでもいいようなことを言いながら、士郎はエミヤとの契約解除に踏み切った。
ハッとした凛が動こうとしたが、もう遅い。
士郎とエミヤの契約は解除されている。
「士郎! あんた、なに勝手なこと――」
「ちょっと黙っててくれ!」
鋭い声に凛は口を噤んだ。
「安心しろ、こいつらに勝手はさせないから」
身動きのできないエミヤが士郎を見つめる。その鈍色の瞳は真っ直ぐに士郎を映していた。
「少しの間だったけど、アンタといるのは楽しかった。アンタが俺のことを考えてくれてるって、ちゃんとわかってた。素直になれないし、口喧嘩ばっかりしたけど、それも意外と楽しかった」
作品名:「FRAME」 ――邂逅録3 別離編 作家名:さやけ