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「FRAME」 ――邂逅録3 別離編

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「すぐ、歩くことくらい、できるようになる」
 士郎はエミヤから目を逸らし、呟くように言った。
 士郎はケガをして動かなくなった右腕と右脚を魔力で動かしていたという。
 そんな器用なことをできるようになったのか、とエミヤは驚くばかりだった。
 いつそんなことを思いついたのかと訊けば、士郎は目を丸くして、やがてその目を伏せ、いつのまにかできるようになっていた、と答えた。
 その表情がとても辛そうに見え、エミヤはそれ以上、何も訊けなかった。
 どうしてそんな顔をするのかと、どうしてこんな身体で、誰にも頼ろうとしないのかと、胸の内ではたくさんの疑問が溢れている。
 だが、それを口にすると士郎がまた辛そうな顔をしそうで、エミヤは何も言えない。
「今さら、家に帰るって、な……」
 壁につかまりながら歩く士郎に合わせ、エミヤもゆっくりと歩を進める。
「何年ぶりだ?」
「たぶん、三年くらい、かな」
「傷んでいるかもな」
「一応、風を通してもらうように頼んであったから、大丈夫だとは思うけどな」
「藤村組か」
「ご名答」
「お前が死んだら、高額で売りさばきそうだな」
「たぶん、そのつもりはあるだろうな」
 士郎は乾いた笑いを漏らしていたが、不意に黙り込み、エミヤを見上げる。
「……エミヤ、本当にいいのか?」
「何がだ?」
「アンタにとっては、あの家、過去の感傷の塊みたいなもんだろ? 居心地、悪いんじゃないのか?」
「お前にもそうだろう、士郎?」
 士郎が遅い歩みを止める。
「士郎?」
「きゅ、急に、下の名前でとかっ、な、なんなんだよ、アンタ!」
 赤くした顔を左腕で隠すようにして、士郎は声を荒げる。
(そんなことで照れるのか、こいつは……)
 エミヤはからかいたくなってきた。
「士郎……」
「だ、だからっ」
 壁に背を貼り付けて、士郎はエミヤから目を逸らす。その顔の側に、とん、と手をつき、エミヤは間近で士郎の顎を捕える。
「セックスまでした仲だろう? 馴れ馴れしいなどと、つれないことを言うつもりか?」
 たっぷりと甘い声で言えば、耳まで赤くした士郎が、ずるずると壁を滑り落ちていく。
「士郎?」
 陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせ、隻眼を白黒させて、士郎は言い返すこともできないようだ。
(少々、度が過ぎたか……)
 エミヤは笑いを堪えながら少し離れる。
「冗談だ、たわけめ」
 真顔で言えば、士郎はようやく気を取り直した。
「て、てめっ!」
 握った拳を見舞うことができず、士郎はギリギリと歯軋りしながら、立ち上がる。
「手を貸そうか? 士郎?」
 わざとらしく言えば、ますます士郎はへそを曲げ、頑なにエミヤの善意を振り払っていた。



 監禁されていた施設から今度はホテルに移動となる。衛宮邸周辺の安全確認が取れるまでの辛抱だと凛は言った。
 監視と盗聴がないだけで、ここでも完全に自由ではない。外出はできず、食事もルームサービスのみと指定されている。
 高層階のはめ殺しの窓から士郎は空を見上げている。
「空は……青いな……」
 エミヤはその声で、言葉で思い出した。あの時よぎった光景を。
 士郎は、空は青いか、と訊いた。己が青いと答えたのを、いまわの際の彼に聞こえていたのかはわからない。
(あの光景は、いつのことか……)
 確かに経験したことだ、と思うものの確かな記憶がない。
 だが、その光景だけが切り取られたように脳裡によみがえった。本体がうっかり取りこぼしたのか、不具合なのか、理由などわからないが、とても重要な記憶だとエミヤには思える。
(この言葉に、どんな意味があるのか……)
 単純な言葉だ。誰もが口にしそうな言葉だ。だが、士郎が何を思ってそう言ったのかを知りたい。
「士郎」
 呼んでも答えがない。窓の側に寄せた椅子に座り、背もたれに首を預け、仰のいたまま士郎は空を見ている。
「士郎」
 右肩に触れると、びく、と身体を跳ねさせて、エミヤを見上げてきた。
「あ……、こ、こっち、側に、立つんじゃ、ねぇよ……」
 言葉遣いは荒いが、声に勢いがない。士郎は右側の視界が見えないため、右側に誰かに立たれるのも、触れられるのも嫌なようだ。
「すまない、失念していた」
「べ、別に、謝んなくて、いい、けど……」
 不貞腐れた顔が子供のようで、エミヤは苦笑してしまう。士郎の左側に回り込んだエミヤは片膝をついた。
「アー、ぁっと……、エミヤ、どうしたんだよ?」
 士郎は何か言い澱んでから応える。
「空が青い、と、言ったな?」
「あ、ああ」
「なぜだ?」
「なぜ……って……」
 琥珀色の瞳が揺れて、エミヤを見ていた士郎の顔が逸れた。
「……んなの、聞いて、どうするよ」
「知りたいと思っただけだ。言いたくないのなら、無理には訊かないが」
「…………言いたく、ない」
 蚊の鳴くような小さな返答に、エミヤは頷いて立ち上がる。
「そうか、ならばもう、訊かないでおく」
 俯いたままの士郎が顎を引いて頷く。
 泣いているように見えた。嗚咽を漏らすわけでも、涙をこぼしているわけでもない。だが、エミヤには士郎が静かに涙を呑んでいるような気がする。
 赤銅色の髪にそっと触れ、そのまま撫でる。
「なに、してんだよ……」
「いや、特には……」
 エミヤ自身、何をしているのかと疑問を浮かべている。
(だが、触れていないと、不安な気がする……)
 窓の外へと目を向ける。快晴の空とガスった地上が見えた。
「なあ……」
 俯いたままの士郎の小さな声が聞こえる。
「なんだ」
 椅子の肘掛けを握りしめる手が震えている。
「いや……、なんでもない」
 士郎はいつも何か言いたげで、いつも口を閉ざす。
 その時の姿は、泣き出しそうな子供のようだった。
(お前に何があったかと、訊いてもいいのか?)
 訊いても答えそうにはないが、と思いながら士郎の頭を撫でていた。
 士郎はそれきり何も言わず、エミヤも何も話さず、静かな部屋に空調の音だけが響いていた。


「回路の調整をするから、魔力が途切れるけど、いいか?」
 昼食を終え、やけに早い時間帯に入った風呂を出てきた士郎は、突然訊いてくる。
「かまわないが?」
 何をするのか全く分からないが、エミヤは頷くより他はない。
「何かあったら、すぐに言ってくれ」
 淡々と言って、士郎はベッドの上に結跏趺坐で座り、呼吸を整え始めた。
 滑らかに、速やかに、士郎は自身の内側に集中していく。
(ずいぶんと手慣れたものだな……)
 エミヤはやはり驚きを隠せない。エミヤが知る士郎は、投影もやっとの魔術師見習いであった少年だ。それが八年という歳月で、魔術的な組織には属さず、正規ではないものの、魔術師としては十分に魔術を使えるほどになっている。
(年月か、それとも、アレに起こった何か、か……)
 エミヤは士郎の過去を知っているようで知らない。エミヤが知っているのは、ただ上っ面の情報だけだ。士郎が何を思い、何を選んだか、何に躓き、何を捨ててきたのか、全く知るよしもない。
(お前は……)
 不意に魔力の流れが途絶える。