「FRAME」 ――邂逅録3 別離編
驚くエミヤの頭を士郎は撫で、そのまま瞼も閉じた。
「し、士郎?」
エミヤの声に、もう瞼は開かない。力を失った士郎の左手がエミヤの頭から滑り落ちる。その手を咄嗟に掴んだ。
「士郎……」
その手を握ったままエミヤは横になる。
士郎と過ごす日々が増えるにつれて、不安ばかりが募ってくる。
いつか失うのではないかと焦燥にかられてしまう。
安心させてくれ、と願いながら、エミヤは士郎の手に額を当てた。
「いてて……」
パジャマのズボンを捲り上げ、士郎は右脚の膝を確認している。
「ああ、かさぶたが引っかかったのか」
生地に引っかかって、膝にできていたかさぶたが少し剥がれたようで血が滲んでいる。
「やっと治ってきたのに……」
士郎はため息をつく。
士郎が膝を擦りむいたのは、衛宮邸に着いた翌日だった。洗濯物を取りこむために庭に出て、数歩のところで派手に転んでいた。
先に物干しの側にいたエミヤが振り返った時には、庭に突っ伏したまま動けない士郎がいた。
何をしていたのか、と訊けば、調整が乱れたと士郎は言った。
真っ赤になって、涙を堪えているような顔で痛む膝を抱える士郎に、エミヤは苦笑いを浮かべる。
「小学生だな、膝を擦りむく、など」
「う、うるせぇよ!」
動けない士郎を抱き上げて屋内に戻り、手当をしようと、改めて士郎の右脚を見ると、ジーンズすら破けていてエミヤは閉口した。
「また派手に……」
ため息をついて、患部を洗浄し、絆創膏では患部を覆えないので、ガーゼを当て、包帯を巻いた。
「調整は終わったのではなかったのか?」
手当てをしながらエミヤが訊くと、士郎はむくれた顔でそっぽを向く。
「士郎?」
「……ちょっと、油断しただけだ。回路も問題ない」
「ならば、気をつけろ。旅の途中で大ケガなどされては困る」
足手まといという意味ではなく、心配だという意味でエミヤは言ったのだが、士郎は前者ととったらしい。唇を噛みしめて俯いてしまった。
「士郎、困るというのは、お前が――」
「困らせなきゃ、いいんだろ」
士郎の声が震えていた。
こんなことであり得ないだろうが泣いているのかもしれない、とエミヤがその顔を覗き込めば、憤っている。自身に腹が立って仕方がないという顔だ。
「士郎、困るというのは、そういう意味ではなく、心配だ、という意味だ」
驚いた顔で見つめてくる士郎の頬に触れ、エミヤは微笑む。
「お前がケガをすると私が辛い、だから、困る」
「……なに……言って、ん!」
エミヤの口づけに声を塞がれ、士郎は驚いたままで硬直している。
「わかったか?」
開いた口が塞がらず、士郎は声も出ない様子だ。
「わからないか? ならば……」
士郎を畳に押し倒すと、ハッとした士郎がエミヤの肩を押し返す。
「わか、わ、わかった! わかった、き、気を、つ、つけ、る! 気を、つける!」
どうにか言い切った士郎に、エミヤは身体を起こし、士郎の身体も引き起こす。
「なん、アンタ、なんで、キ、キス、なんか、し、して、く、く、」
「さあ? なぜだろうな?」
エミヤはにっこりと笑って、洗濯物を取りこむために居間を出た。廊下を歩きながら、エミヤ自身首を捻る。誤魔化すように言った前の言葉は、エミヤの本心だった。
(私は、なぜ、キスなどしたのか?)
洗濯物を取りこみながらエミヤはずっと考えていた。
士郎がケガをするのを見ていられない、と思った。たかだか膝を擦りむいたくらいで何を、と思うのだが、士郎の表情がどうしても、ただ転んだ、というふうに思えなかったのだ。
そうしてまた、訊けない疑問を思う。
(お前に何があったのか……)
士郎にぶつけられない疑問を、口内で呟いて、エミヤはため息に紛らせた。
「アンタ、キスが好きなの?」
「は?」
かさぶたに引っかかったパジャマを慎重に取ろうとするエミヤに、士郎が突然、訊いてきた。
「なんだ、藪から棒に」
「あの時、キスしただろ? だから、キスが好きなのか?」
「違うが」
「はあ?」
士郎が顔を顰める。
「じゃあ、なんだって、キスなんかしたんだよ?」
「さあ? したくなったのだろう」
少し前に、やはり突然キスをしたエミヤに、理由がないなら、したくなったと言えばいいと士郎は教えてしまった。それを忠実に口にするエミヤに士郎は苦笑いを浮かべる。
「上手い逃げ口上、教えちまった……」
ようやくパジャマからかさぶたが外れ、エミヤはかさぶたの上に絆創膏を張る。
「さんきゅ」
「お前は好きなのか?」
「ん? 何が?」
「なんだかんだと言うわりに、逃げないだろう?」
じっと見つめると、士郎はあらぬ方へ目を逸らす。
「あー……、まあ……」
「嫌なら、拒めばいいはずだ」
はっきりと答えない士郎に、やや苛立ったエミヤは救急箱の中身を片付けながら口早に言う。
「えーっと……、好きかも。アンタとするのは」
がしゃん、と持ち上げた救急箱を落とし、エミヤは数度瞬く。
驚きと、うれしさが同時にこみ上げてきて、ハッとする。
(ああ、そうか……、あの下水組織であんなことをしていたのだ、キスくらいはどうということもないのだろう……)
“アンタとするのは”
その言葉にエミヤは引っかかりを覚えた。
(ということは、他にいた、ということだ……)
士郎の退廃的なところを目の当たりにしていたエミヤは、士郎にとってキスなど、なんということもない行為なのだとわかった。
動揺した己が馬鹿だった、とエミヤは落とした救急箱を持ち、立ち上がる。
「まあ、私など、誰と比べようとも、中の下、くらいだろう」
「え?」
「お前は、他にもたくさん愉しむ術を知っているようだしな」
救急箱を片付け、エミヤは士郎に目を向ける。
目が合った。すぐに士郎の琥珀色の瞳が、逸れていく。
「ああ、まあ、そうだよな……」
何を納得したのか、士郎は立ち上がり、居間を出ていった。
「士郎……?」
士郎の態度がどこかおかしいと思いつつ、エミヤは台所に入り、洗い終えた食器を片付け、翌日の朝食の材料を確認する。
(士郎には、キスなど、朝飯前のようなもので……)
顔を逸らした士郎は俯いていた。その時見えた横顔が気になっている。
(表情がなかった……)
だから気になるのだ。
胃のあたりがぞわぞわとしてくる。
(以前、キス以上のこともしたのだから今さらキスなど、と言えば、傷つくと士郎は言わなかったか?)
思い出して、エミヤは落ち着かなくなってくる。
確かに士郎は色々な経験をしているかもしれない。不特定多数の人間とキスをしたのかもしれない。
だが、それをエミヤが咎めるように厭味を言うのもおかしな話だ。勝手にキスをしたのは己であり、それを誰かと比べたからと言って、気分を害し、士郎を蔑むようなことを言うのは勝手が過ぎる。
(だが、嫌だと思った……、他に誰か、そういうことをした者がいたとしても、比べられるのは……)
たかがキスくらいのことで、と思いたいのに、士郎の無表情が頭にちらついて離れない。
(あれは、どういった……)
士郎の心理がよくわからない。
作品名:「FRAME」 ――邂逅録3 別離編 作家名:さやけ