彼には内緒で
そこは簡易キッチンで、小さな冷蔵庫も置かれていた。
調理台の上には鰹節削り器と小さなガラスボウルと包丁、そしてネギと豆腐──のようなものが崩れて散らばっている。
コンロの上には小さめの鍋が置かれており、中には水と昆布が入っている。ふと冷蔵庫の上を見れば、味噌が何種類か置いてあった。
どこからどう見ても味噌汁の材料だ────自分の好物の。
「アンジェ……あの、これは?」
今度は先程とは逆の意味で心臓が騒ぎ出す。耳まで熱くなっているのが自分で分かった。
「あの……ルヴァ様におミソのスープを作って差し上げたくて……調べたらおダシを取るのに軟水がいいって本にあったんですけど、ここのお水は硬水だから困ってしまって。それでゼフェル様が軟水を取り寄せて下さったんです……」
確かにゼフェルは色々な地域のミネラルウォーターを試していてそちらの情報には明るい。
でも、と更なる疑問が沸き起こる。
「しかし、それならどうして服がそんなことになっているんですか」
若干責めるような口調になってしまったのは、嫉妬しているからなのだと自覚する。
「おダシを取ろうと思ってカツオブシっていうの削ってみたら匂いが凄くって……何度かおダシをこぼして服に匂いが染み付いちゃったんで、毎回着替えてました」
そう言って後ろ手に隠していたエプロンをそっと差し出され、それを受け取った瞬間鼻先にかつおだしの良い香りが掠めていった。彼女の足元には小さめのバッグが置かれていて、そこからブラウスの袖らしきものがはみ出ていた。どうやら慌てて着替えていたのは本当のようだ。
「ゼフェル様はわたしに協力して下さっただけなんです。心変わりだなんて、そんな……」
ゼフェルが少しだけ笑んだ口元で冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出して飲み始める。
「ここならジュリアスはまず来ねーしお茶会だなんだって人の出入りもねーからな、オレもほとんど使わねーから綺麗なもんだし」
真相を知れば納得の行く結末に、安堵がルヴァの体中に広がっていく。
「そうだったんですか……私はてっきり、あの……あなたの気持ちが離れてしまったのかと思って」
アンジェリークがそっと身を寄せてきたのをすかさず引き寄せて抱き締めた。
「心配かけてごめんなさい……わたし、お料理あんまりしたことなかったから、なかなか上手にできなくて……」
「いいんですよ、私こそいきなり怒ったりしてすみませんでした」
そこでゼフェルが調理台の上の無残な豆腐の残骸を見て片眉を上げた。
「トーフの切り方、まだダメっぽいなー。ちょっと来いアンジェ」
「えっ? あ、はいっ」
「手ェ出せ」
パックから出した豆腐を半分に切り、アンジェリークの手の上に乗せた。
「おめーのこった、全部手に乗せて切ってたろ。そんで切った端からボトボト落ちて、慌てたせいで残りもグチャグチャ。違うか?」
ゼフェルの見ていたかのような指摘にアンジェリークが驚愕の表情になる。
「な、なんで分かるんですか!?」
「そこの残骸見りゃ分かる。何パック犠牲になったと思ってんだよ。横着こいて最初から全部やろうとすんな、半分に分けてやってみろよ」
そろりと垂直に包丁を入れようとしてゼフェルに突っ込まれた。
「ブー。まずは横、水平方向からだ。ちょっと包丁貸してみ」
普段料理をしないゼフェルだが、彼は何かを作ろうと思い立つとチャッチャと作るタイプのようだ。
アンジェリークと同量の豆腐を片手にすいすいとさいの目に切っていく。
ルヴァはその手際に感心し、賞賛が口から零れ出た。
「さすが、鋼の器用さは伊達じゃないですねー」
「こんなもん器用さ関係ねーっつーの。アンジェ、ボウルに水張れ」
そうして綺麗にさいの目に切られた豆腐が水の張られたボウルの中に入れられる。
「切る順番分かったか?」
にこにこと嬉しそうに微笑んで頷くアンジェリーク。
「はい、やってみます!」
「ルヴァにバレちまったことだしよ、ここらで一回飲ませてみたらどうよ」
ゼフェルの提案にアンジェリークは狼狽えている。
「え、でも……お椀がないですよ?」
「使い捨てのスープカップとフォークだったら上の棚に入ってる」
機械いじりを始めると熱中しすぎていちいち洗い物などしていられない。それゆえ、使い捨ての紙皿なども置いてある。
もっとも、それすら使わないくらいの貧相な食事──食事と言えるかどうか甚だ疑問──になっていることのほうが多い。
「ルヴァ、向こうに行ってよーぜ」
「あー、はい。ではアンジェ、楽しみにしていますよ、頑張って下さいねー」
照れ臭そうに頷くアンジェリークを一人残し、二人は執務室へと戻っていく。