「FRAME」 ――邂逅録5 蒼天編
目的の場所の付近まで来て、今夜は車中泊だ。
運よくワゴン車を借りることができたものの、荷室に毛布を敷いただけでは冷えるため、士郎を背中から抱き込んで毛布に包まっていた。
士郎の身体は冷え切っている。夜には急激に気温が下がるというのに、星空を撮るのだと言って、ついさっきまで士郎は外でカメラを構えていたのだ。
「星がいっぱいだなぁ」
窓越しに見える星空に、士郎は左手を伸ばした。
「あの時さ、こんな感じなんじゃないかって、思ったんだ」
「あの時?」
「ほら、俺が空に手を伸ばしてた写真、勝手に撮っただろ。あの時」
「ああ」
「記憶を持たないっていうのは、空を掴むみたいに、頼りないものなんじゃないかなって、あの時思ったんだ……」
ぎゅっ、とエミヤは士郎を抱きしめる。
「アーチャー?」
(私を想っていたのか、あの時……)
うれしさがこみ上げる。
「アーチャー、どうした?」
不思議そうな顔で見上げてくる士郎の額にキスを落とした。
「私は、あの光景を忘れたくないと思った……、だから、無意識にシャッターを押した……」
驚きに満ちた緑光の瞳。
「あれから俺、空を見上げるのが、癖になったんだ……」
囁いてキスをくれる士郎。
探し続け、求め続け、彷徨って、ようやくこの腕の中に受けとめた、たった一握りの“すべて”。
理想も、進むべき道も、かなぐり捨てて、全てと引き換えにした士郎が、己の“すべて”だ。
「士郎、私は、愛してしまったんだ、お前を……」
そっと片腕で抱き寄せてくれる士郎が、己の全てを受けとめてくれている。何もかもを諦めて手を伸ばすこともしなくなった士郎が、己だけを引き寄せているような気がする。
「俺なんか……、死ぬまで、傍にいてくれとか、言ったんだぞ……、今さら、そんなので、驚くかっての……」
士郎の顔を覗き込むと、照れたようにあらぬ方に顔を向けてしまった。
「ああ、確かに」
士郎を抱きしめて瞼を閉じる。
眠るわけではないが、ただ、こうして士郎の眠りを守っている時間はかけがえのないものだった。
「何もない……」
瓦礫だけがある。
士郎は立ち尽くす。
ここが、SAVEの最後の場所だった。
士郎が全てを失った日だった。あの時に、また、と思ったことを士郎は思い出していた。
「あの火災と同じだって、思ったんだ……」
全てを失くすのだと、あの炎に全てを奪われたように、士郎はまた何もかもを失うのだと、あの時、思っていた。
「火災の時は親父に救われた……、今度は、アーチャーに救われた……」
「士郎、私は救えてなどいなかっただろう?」
「いや、あの時じゃなくてさ、それからの、ことだよ……」
羽織っていた外套を脱ぎ、士郎は瓦礫の側に歩み寄る。風が赤銅色の髪を撫でた。華奢な身体を包む白いシャツが風にはためく。
砂に覆われた瓦礫は、あの時よりも崩れていた。
「シェード……」
膝からくずおれた士郎に驚き、エミヤは片膝をついてその身体を支える。
「士郎? 大丈夫か?」
膝をついたまま、士郎は拳を握りしめていた。
「泣かないって決めたんだ……」
士郎の震える声に何も言わず、その肩を抱き寄せる。
「ここで……、あの時……」
苦しげに士郎は吐露する。
「世界に本当のことを、曝すまでって……、俺は……」
かたく瞑られた瞼は、ずっと堪えてきた士郎の最後の砦だ。
「士郎……」
「決めたんだ……泣かないって……呼ばないって……」
「士郎、それは……」
「アンタは、エミヤで……アーチャーじゃないって……何度、思い直しても、何度、自分に言い聞かせても、アンタが違うと言ったのに、俺は……いつまで経っても……アーチャーって……、まるで、理想を追い続けたあの頃に縋りたいようで……、情けなくて……、アンタに……顔向け……できな、っ、くて……」
声が嗚咽に飲まれてしまった。
士郎は身体を震わせながら、苦しげに言い訳をし続けた。
「いいんだ、士郎。私は、アーチャーだろう?」
「ちが、っ、アンタは、」
顔を上げてエミヤを見つめる士郎の頬をそっと撫でる。
「呼び方など、なんだっていい。私を呼ぶお前がいる、それだけでいい」
「なに……言って……」
「なあ、士郎。ずっと堪えてきたことを、そろそろやめにしないか?」
「そん……なこと……」
「空が、青いんだ……。私はこんなにも青い空が好きだったのだな……。お前と見上げた時も、お前が青いかと訊いた、砂埃の向こうにも、青い空が広がっていた。記憶を持たなかった私が青い空を覚えていた感覚は、お前と見たからだ。お前の体温とお前の声とお前の存在を記憶という映像ではなく、心の揺らぎが覚えていた。“青い空”という感覚は、お前に続いていたのだと、今は思う」
「アーチャー……」
士郎の頬を大粒の涙が滑った。
「私はお前を探し続けた。お前の想いを噛みしめながら、私はお前を追い求めた。だから士郎、私は、お前の全てが欲しいんだ」
「な、ん……」
言葉を失くす士郎に笑みを浮かべた。
「だから、何も堪えたりすることなく、私に全てを預けてくれ」
「バッ……カ、じゃ、ない、のか……」
「そろそろ馬鹿になってみるのも、いいかと思ってな」
屈託なく笑うと、士郎は何度か瞬いて呆気に取られ、やがて、ふは、と笑った。
「アーチャーが、そんなふうに笑ってるって、なんか、可笑しいな……」
立ち上がる士郎を支えようとすると、左手でエミヤの肩に掴まってくる。素直に身体を預け、助けられる士郎は初めてかもしれない。
「はは……」
士郎は小さく笑って、右手で自分の頭をさすっている。
「士郎?」
「目の前でいちゃつくなって、シェードにこつかれた」
ふ、と目尻を下げたエミヤは士郎の頬にキスをする。俯いたまま耳を赤くして、士郎はエミヤの髪を荒く撫でた。
「シェード、俺、あんたの言った通り、こいつに助けられたよ。これから、こいつと生きてく。あんたの命令通り、まだまだ生きてやるよ、アーチャーと」
風が砂埃を舞い上げた。
空は遠く青い。
少し片脚を引きずる士郎の傍らには、歩調を合わせてゆっくりと並ぶアーチャーがいる。
歩き出した二つの人影は、やがて砂塵に紛れた。
***
魔術協会の調査課のパソコンにメールが届く。報告書をメール送信などで済ませる不心得者はこの古い組織ではいない。ペーパーレスを謳われる現代でも、最終的な報告書は紙で綴られている。
受信メールを確認すると、一斉送信のメールだった。
内容は、“衛宮士郎、消息不明”という緊急のもの。
送信元は協会本部。署名は、遠坂凛。
「はは……」
笑ったのは、調査課の主任調査員。
このメールだけで真実を汲み取れる者はほとんどいないが、彼はその、ほとんどいないうちの一人だ。
行方をくらました衛宮士郎の捜索はすぐに打ち切られるだろう、と主任調査員は予想している。なにせ、衛宮士郎にはもう何をする力もないのだから監視下に置いても意味がない。追うだけ無駄だとわかっている。
衛宮士郎は魔力を持っている魔術師だとしても、視力と身体を動かすことに魔力を消費してしまい、ただの一般人と変わらないのだ。
作品名:「FRAME」 ――邂逅録5 蒼天編 作家名:さやけ