「FRAME」 ――邂逅録5 蒼天編
「わかった……」
あまり乗り気ではない士郎を伴ってアパートを出る。通りを歩き、市場へと向かう交差点の手前で、呼ばれた気がして振り返ると、士郎の身体が傾いていく。咄嗟に支え、アパートに戻った。トイレで吐き続ける士郎に無理をさせたのかと訊けば、士郎は否定する。
結局、いつものようにエミヤは一人で買い出しだ。
「まだ、早かったのだろうか?」
首を捻りながらエミヤは市場への道を歩く。
「おかしい……」
士郎は、調整はうまくいっていると言っていた。エミヤに流れてくる魔力も申し分ない。
「何が……?」
士郎はまだ何か隠しているのだろうか、己も謀られているのだろうか、とエミヤは不可解さを拭えないまま市場へ向かう。買い物が済んだ帰り道、ポツポツと降りだした雨が次第に激しくなってきた。仕方なく傘を買ってアパートへ向かう交差点で見覚えのある姿に目を瞠る。
「士郎……」
驚いて思わず立ち止まる。調子が悪くなったというのに、何をしているのかと首を捻る。雨の中ずぶ濡れで手には傘を持っているのにささないままで。
「士郎?」
こちらを向いた士郎に息を呑んだ。頬を伝う雨が涙に見えた。まさか、と一瞬よぎった可能性を払拭し、士郎の持つ傘を奪って開く。
「傘を持っているのならさせ」
「悪い……」
士郎は謝る。
(謝罪を求めているわけではないのだが……)
右脚を引きずりながら歩く士郎に歩調を合わせながら、エミヤは士郎の腕を引く。舗装のされていない道は、川のようになっていて足を取られてしまう。視力のままならない士郎には、なおさら危険だ。
ようやくアパートに着き、士郎を浴室に追いやる。ずぶ濡れで身体が冷え切っていた。掴んでいた腕がその体温をエミヤに如実に伝えてきた。
(何をしているのか、まったく……)
調子を乱して動けなくなったのに、士郎は一人で外に出ていた。土砂降りの中、傘をささずに持ったままで。
マシになったから動いてみたと士郎は言うが、脚を引きずっていた。
(まだ調子が戻っていないだろうに、何を焦っているのか……)
無茶をして身体を壊しでもしたら本末転倒だ、とエミヤは玄関扉に靴を立てかけ、足を雑巾で拭う。
ずぶ濡れの士郎にはシャワーを浴びて、ついでにざっと服も洗えと指示した。
買って来た物を冷蔵庫にしまっていると、士郎が浴室から出てくる。着替えを持って行く間がなかったからか、脇腹の傷を隠すようにバスタオルを巻いている。
思わず生唾を飲んだエミヤは、歩いていく士郎から目を逸らそうとしてハッとした。
士郎の背中や右腕、右肩あたりに痣がある。
(なんだ? あんな傷をいつ……)
打ち身らしき痣は、最近のもののようだ。いや、治りかけているものもある。少し前と、最近のものが入り混じっている。
何かおかしい、とエミヤに疑念が湧く。
回路の調整も魔力量の調整もうまくいっている、と士郎は言っていた。だが、いざ動いてみると満足に動けなかった。
(士郎はやはり何か……隠しているのではないか?)
調整がうまくいっている、と言うわりに、士郎の調子は、いいようではない。
(何が……?)
このところ、エミヤは士郎とまともに会話もできてはいない。士郎と二人きりで、何事もなく過ごす自信がないからだ。
買い出しに行っている間、士郎がいったいどのように過ごしているのか、最初の頃は話の間にそういう情報が入っていた。だが、今は会話すらほとんどない状態で、士郎のいったい何を知れるというのか。
(うまくいかない……)
あれ程求めた士郎と今ともに在るというのに、エミヤには士郎が遠い存在である気がしてならなかった。
その夜も、エミヤは街に出た。
夕方に雨はやみ、星空が広がっている。
士郎の様子が気にはなるが、傍にいれば手を出しそうになるので仕方がない。
アパートに戻ると、灯りは消えていた。
ベッドに目を向けて、エミヤは驚く。
ベッドは部屋の角の壁につけて設置してある。その隅で士郎は膝を抱えている。
起きているのかと思い、近づくと寝息が聞こえる。
「こんな格好で……?」
いつもは普通に寝ている。今夜はたまたまこんな格好なのだろうか、と横にしてやる。
ふと、その場所から視線を上げると、ソファが見えた。いつもエミヤはそこで夜を明かしている。
(ここからは、よく見えるな……)
間仕切りのために吊るした二枚のタペストリーの合間からソファが見えるのだ、このベッドの隅からは。
(そういえば、士郎はいつも隅の方に頭を持って行って寝ているな。癖か?)
士郎の髪をそっと撫でて、ぼんやりとタペストリーの合間を見つめる。
ハッとした。
「見て……いたのか……? いつも、私を……? まさか……?」
半信半疑で呟く。
(あり得ない、たまたまだ)
士郎の眠りが浅いことを思い出す。夜中に何度も目を覚ましていることは知っている。夜中に目覚めて、タペストリーの合間から、ソファにいる己を見ていた可能性は高い。
「ぐ、偶然、だろう……?」
口にしてみたが、上滑りのようで真実味がない。
(なんだ、これは……)
どうすればいいのか、とエミヤは今すぐ抱きしめたい衝動に駆られて、拳を握る。
(ああ、私は、もう少し士郎を見なければ……)
先入観なく、過去にどんなことをしただとか、誰と何をしただとか、そういうことを抜きにして、正面から士郎と向き合わなければならない、とエミヤはようやく気づいた。
少々傷つけたとしても、溜まった膿を出さなければ、治るものも治らない。士郎の溜め込んでいるモノを全て吐き出させなければ、旅に出ることなど無理だ。
「士郎……」
そっと士郎の額に口づけた。いろいろとおさまりきらないものがあるが、今は、我慢をする。
ソファへと向かい、背もたれに肘をついて、熱いため息を逃しながらエミヤは思考に耽る。
眠る位置、身体の痣、士郎の真実を何も知らないことに気づく。
(士郎が何を思い、何に躓き、何に泣いて……)
全てを知りたいと願いながら、エミヤは士郎の何も見ようとしていなかった。
士郎の過去に拘って、何をしていたとか、誰とどんな付き合い方をしただとか、そんなことばかりを気にして、そんなことに囚われて……。
(もしや、嫉妬にかられて、私は士郎を傷つけていたのではないか?)
士郎は何も言い訳をしなかった。
(私がそうだと決めつけているから、何を言っても無駄だと諦めていたのか? だとしたら馬鹿にしている。そんなものだと見縊られていた、ということだ……)
腹立たしく思う、そして、悲しいと思う。
(士郎は何も言ってはくれない……)
旅に出たいと願ってくれた。だが、それだけなのだ。エミヤにどうしてほしいだとかは全く言わない。家事のことにしてもエミヤから切り出した。士郎は自分からは何も望まない。
(望まない、のか……? いや、望めないのか? 望んでいたとしても、口にはできない? 士郎は何を望んでいる? 何を求めている? 士郎の願いはなんだ? ああ、本当に私は、何も知らない……)
士郎と腹を割って話す必要がある、とエミヤは深く息を吐く。
(だが、士郎は真っ向から話そうと思っても、誤魔化して、うやむやにしてしまうだろう……)
作品名:「FRAME」 ――邂逅録5 蒼天編 作家名:さやけ