粃 ――シイナ――
やや視線をさ迷わせて、再び士郎の細い身体に目を戻した。
「こんな身体で……」
剣を受けたのかと、何度も死にそうになったのかと、ため息がこぼれた。
膨らみのない身体。肉付きなどありもしないのに、柔らかな感触に戸惑う。
「ああ、オレも、どうかしている……」
嘆いたとて、もう後戻りする気が無いことをどこかでわかっていた。
士郎の身体を向かい合ったままでそっと抱き寄せ、目を閉じる。
温かい身体、細く柔らかな身体、とくとく、と刻まれる心音、腕の中の生きている存在を大切にしておきたい……。
(ハ……、何を馬鹿げたことを……)
思いつつ、腕に力が籠もりそうになるのを、どうやって止めようかと思案している。
赤銅色の髪を撫で、まだ鈍い痛みの残る右腕で、その背中をさする。
冷たくなってしまった身体を温めるように、この身の熱を与えたい。
大切にしたいものができた夜。
この腕の中の存在を、もっと知りたいと思った。
*** 幕間
「腕、もういいのか?」
台所に立つアーチャーに、士郎がおずおずと訊く。
「ああ。士郎のおかげでな」
淡々と答えるアーチャーに、士郎の顔は、ぼっ、と真っ赤になった。頭の天辺まで一気に熱が駆け上がったようだ。
「そ、そそ、そか、う、うん、よ、よか、ったな」
くるーり、とロボットのように踵を返した士郎の首根っこをアーチャーが掴んだ。
「ヒッ」
肩を竦めて怯えつつ振り返る士郎に、アーチャーはにんまりと笑う。
「また頼む」
「な、なな、なんでっ?」
「まだ痛む」
「う……」
それを言われては、士郎は何も言えない。
「わ、わかった」
了解を得たアーチャーは満足げに、にやり、と笑った。士郎はまるで、捕えられた小動物のように、しゅん、となった。
「なぁにやってんのかしらね、あの二人」
ぱり、と凛がお茶請けの煎餅を齧りながら目を据わらせる。
「シロウは大丈夫でしょうか……、シロウの貞操は……」
セイバーはやはり昼ドラの見すぎかと思える。
「大丈夫よ、いたしてしまったとしても、合意だろうし」
「い、いたしっ? ご、合意っ? そ、それは、シ、シロウも、ということですかっ?」
「見りゃわかるでしょ」
やはり呆れた顔でセイバーに言う凛は、何度目かのため息をつく。
「あーあ、春が近いわねー」
このまま、ほのぼのやっててくれればいいけど、と凛はお茶を啜った。
***
「ああ、今日は……」
カレンダーに目を向けて呟く。
今日は誕生日だった。
忘れ去られた誕生日。誰も知らない女の子の……。
「お墓参りに行こうか……」
呟いてみて、苦笑いが浮かぶ。墓なんて無い。
「お母さんのも、お兄ちゃんのも、自分のお墓も、ないんだ……」
縁側に座って庭を眺める。
衛宮士郎となった日に、自分はいなくなったのだ。
あの日に死んだのは、兄と自分との両方、兄の身体と自分そのもの。
残った自分は兄として生きなければならず、ひたすら男であると自分に言い聞かせて生きた。
救われた命、身代わりで死んだ兄、可哀想だと愛してくれた母……。
この日だけはいつも辛くなる。
母は誕生日が一週間の違いという近さでも、兄の誕生日と一緒に祝うことはしなかった。いつもそれぞれに祝ってくれた。
そのことには感謝している。けれど、その思い出が苦しいと思う。
衛宮士郎になりきれなくて、十年繰り返しても、どうしてもこの日が辛い。
しかも時期は春休み。学校が休みなために家にいることが多い。
一人でいると、どうしても嫌な記憶ばかりを思い出してしまう。
立ち上がって玄関へ向かった。
家にじっとしているのは、どうしようもなく針の筵のようだった。
今までこんなことはなかった。苦しくても家にいて、その日が過ぎていくのをただ時計とにらめっこして過ごしていた。
なのに、今日はどうしたのか。
家にいられない。
玄関を出ると駆け出した。
逃げたくて仕方がない。
門を出て新都へ向かう。バスになど乗る気にもならない。走りづめで中央公園に着いた。
「はー……はー……」
軽くマラソンをやってのけたくらいの気怠さ。
何もない公園、あの日に全てが燃えてしまった街の跡。
ここで死んだのは、母と兄と自分。
お墓はない。この地がお墓のようなもの。
「は……」
息を整えながら近くのベンチにまで歩いた。
平日だからか、いつもなのか、人の気配がない。
公園だというのに、誰もいない。
「あ……」
曇った空から細かい雨が落ちてきていた。雨が降っていることにも気づいていなかった。
霧雨は辺りを白っぽく包む。
「このまま消えればいい……」
白い雨に包まれながら呟いた。
衛宮士郎でもない者が、衛宮士郎を名乗るなど、おかしな話だ。
衛宮士郎はアーチャーであって、自分ではない。
「自分は……何者だろう……」
あの日に死んでしまった自分。兄・士郎となった自分……。
空を見上げると、灰色の雲。
よかったと思う。あの日のように赤い空じゃなくて。
もう、あんな空は見たくないから。
「士郎」
呼ばれて目を開ける。顔を上げると、傘をさしたアーチャーが立っていた。
なんで、いるんだろう?
「濡れているぞ」
「ああ、うん」
「何をしている」
「ああ、えっと……」
「待ち合わせか?」
「違う、けど……」
「用はないのか?」
「……あ、……うん」
頷いて、そのまま俯いた。
どうしてアーチャーがここにいるんだろう。
家を飛び出したのは、家にいられないと思ったのは、アーチャーがいるからだ。この日に本物のエミヤシロウが目の前にいるのは、どうしても耐えられなかった。
見たくないと思って家を出てきたのに、どうしてここに、こんなところにまでいるんだ……。
いつの間にか本降りになっていた雨が不意にやんだ。
顔を上げると、アーチャーが傘を自分の方に傾けていた。
「いいよ、もう濡れてるから。俺にかざしたら、アーチャーが濡れる」
傘の端を押し返すと、ムッとしてさらにこっちに傾けてきた。
今日は会いたくなかった。
だってアーチャーは、衛宮士郎だから。
この姿が正当だと思えるから。
傘を押し合う気力がなくなってきて、好きにさせた。
アーチャーの顔を見上げていることもないから下を向く。
「士郎」
そう呼ばれることには慣れてきたけど、今日だけはちょっと勘弁してほしい。
答えることができなくて、顔も上げられない。
「士郎」
なんなんだろう。
どうしてこんなところまで来て、自分を士郎と呼ぶのだろう。
「帰ろう、士郎」
帰るって、どこに?
自分の住んでいた街は、もう無くなったのに。
ぬ、と褐色の手が差し伸べられた。
自分に差し伸べられるこの手は、たくさんの人たちを救ってきた手だ。こんな自分のためにあるものじゃない。
この手を取ることができるのは、生きている人たち。自分のように、あの日に死んだ者なんかじゃなく……。
「帰るぞ」
短く言ったアーチャーが腕を掴んで、強引に引っ張り立たされた。
そのまま歩いていくアーチャーに引きずられるようにして歩く。