粃 ――シイナ――
帰る場所なんてない。あるとすれば、ここだ。この何もない、一夜に全てが真っ黒になった、この公園。
急に振り返ったアーチャーに傘を押し付けられた。
「え? あ、ちょっ」
また引っ張られていく。雨に白い髪が濡れていく。灯りはじめた街灯に照らされる髪は銀色に見えた。
ダークグレーのシャツが見る間に濡れていく。三月も末だけど、雨は冷たい。いくらサーヴァントだからって、濡れれば気持ちが悪いだろうし、冷たいとか感じるはずだ。
自分が傘を持っていたらアーチャーが濡れてしまう。だけど、早足で歩くアーチャーには、引っ張られるばかりで、背の高いアーチャーに傘をかざせるほど追いつくのが難しい。
「ア、アー、チャー、ちょっ、ちょっと、待てって!」
ぴた、と足を止めたアーチャーが振り向く。
「ああ、すまない」
何に謝っているんだろう?
やっとアーチャーに傘をかざすことができた。
「必要ない。お前が使え」
ムッとしたままで、また傘を持つ手を押し返してくる。
「もう、わかったよ。俺が使う。だから、一緒に入ればいいだろ」
アーチャーが驚いた顔をするから、何か文句があるのか、と思って軽く睨んでから思い至る。
(ああ、何を言っているんだろう……)
一緒に傘に入れ、なんて、アーチャーにしたら全力で回避したいことだろう。
「あ、……っと、き、気にしないんなら、だけど……」
なんだか恥ずかしくなってきた。
もういい加減、掴んだ腕を離してくれと言いたい。
そんなことを思って下を向いたら、あっさりと掴んだ腕を離してくれた。
ほっとしたのも束の間、傘の柄を持つ反対の手を上から握られる。
「え?」
右側にいたアーチャーが自分の左側に来て、そのまま歩き出す。
「ちょっ!」
何してるんだ、こいつ!
あれだぞ、これ、いわゆる、相合傘ってやつで、ど、どう見ても男二人にしか見えないのに、それに、消し去りたいと思ってた相手とこんなこと、して……、いいのか、こいつは……?
「アーチャー、……その、これは、……ちょっと……」
「手を離せば、またいなくなるのだろう?」
「え……?」
驚いてアーチャーを見上げる。
前を見つめる横顔は濡れて、いつも後ろに撫でつけられた髪が半端に下りて、見たこともないような姿に、鼓動が速度を上げていく。
一つの傘に一緒に入ってることだけでも恥ずかしいのに、手も握られていて……。
その上、手を離したら自分がいなくなるからって……。
それって、いなくなるなって、言ってるのと同じじゃないのか、なんてことを思ったりして……。
「あの……」
「どこに行こうとかまわんが、行き先くらいは言っていけ」
「え……?」
もしかして、探していた?
自分を、探してくれた、のか?
何も言わずに自分が家を飛び出したりしたから……。
「わ……かった……」
申し訳なくて視線が落ちる。
心配をしてくれたのだろうか。
そんなこと、ないだろう。
ないだろうけど、そうだったら、うれしいな……。
「士郎、何かあるのか?」
「え?」
「無理強いして訊き出そうとは思わない。だが、お前が何も言わない限り、私は何も気づくことはできないし、お前が果たせと言った責任も取ることができない」
こちらを見た鈍色の瞳は、揶揄を含んでいるわけでもなく、真摯なものだった。
アーチャーは、自分と向き合おうとしてくれている。
自分があんなことを言って引き留めたから、あんなことを言って、契約したから……。
この英霊となった衛宮士郎に、自分はとんでもない横暴を働いた。
「ごめんな……、アーチャー、俺は――」
「何を謝る。お前が自分で責任を取れと言ったのだ。私もそれには同意している。したがってお前のことを見届けるつもりだ。そのためにも……、あ、いや、それは関係のないことだな、言い訳にもならない」
足を止めたアーチャーがこちらに身体を向ける。
「お前を、知りたいと思う」
「な……に、言って……」
「お前のことを、教えてほしい」
真っ正面から見据えられる。
眼差しも、声も、真摯としか言いようがない。
どうすればいいんだろうか?
話せることなんて何もないのに、アーチャーは教えてくれって、こんなに真っ直ぐに……。
「衛宮士郎になる以前を、なった経緯を、話してはくれないか?」
ああ、もう崩れていきそうだ……。
ずっと張り続けた虚勢が、古い塗膜みたいに剥がれていきそうになる。
「お前が背負ったものは、なんだ?」
「背負った、もの……」
それは……、兄の命、母の想い――“衛宮士郎”だ。
今頃気づいた、自分が背負ったもの。
そうか、目の前にいるエミヤシロウを自分は背負ったのか……、あの日に……。
ならば、話さなければ。
彼が本来のエミヤシロウであるのなら、この世界の衛宮士郎が、どんなふうにその命を消していったのかを。
「俺が背負ったのは……、たぶん、衛宮士郎、だよ……」
「それは――」
「家で話す。こんなところでする話じゃないから」
頷くアーチャーとともに家へと向かった。
***
衛宮邸に戻り、ずぶ濡れだった士郎を風呂に入らせ、夕食の準備をする。
士郎は自らのことを話すと言ったが、先に夕食などを済ませておいた方がいいだろう。でなければ落ち着いて話すこともできない。
おおかたの調理を終わらせたところで、士郎が居間に入ってきた。
「温まったのか?」
「あ、うん」
タオルで汗を拭いていることだし、顔色も赤みがさしている。本当のようだ。
こいつは時々嘘を吐く。全く大丈夫ではないくせに、大丈夫だと言い張るところがある。
士郎の応答はいつも半分疑ってかかるのが常だ。
「先に食べよう、もうできる」
「悪いな、任せっきりで」
そう言って目尻を下げた士郎が笑ったのだと気づいたのは数瞬後。
こいつは笑ったためしなどなかっただけに、驚いて思考が停止してしまった。
おまけに、やたらと鼓動が跳ねた。
(なんだ、これは……)
自分自身、納得がいかない。
妖艶でもない、美女でもない、士郎が目の前にいるというだけで、どうして私はおかしな緊張などしているのか……。
腑に落ちないことが多すぎる。
士郎が女であることも、何やらワケありなことも、そして、私がこいつにおかしな感情を向けそうになっていることも……。
夕食を食べ終え、片付けも終え、居間で士郎と向き合った。
こんなふうに向き合ったのは二度目か。
互いに正座で、士郎は緊張しているのか、強張った頬と唇が震えている。
「えっと、兄は……その、士郎って言って……、自分は、妹で……、母は、うちの家系は、女は長生きできないっていう、言い伝えだか、都市伝説だか知らないけど、そういうのがあって……。男兄弟の身代わりなんだっていう話をしていたと思う。その家に生まれた男子の災厄を引き受ける、とかって言ってたかな……、悪い、よく、覚えていないんだ……」
必死に思い出そうとして、眉根を寄せ、時々ぎゅっと目を瞑って、士郎は辛そうだが、訥々と言葉を紡ぐ。
「どういう……仕組みだ……、それは……」
思わず顔を顰めてしまう。なんと非現実的なシステムか。
兄弟の厄介ごとを引き受けるだと?