粃 ――シイナ――
本気でそんなことを信じていたのか、こいつの母親は。
「えっと、うん、おかしな話だよな……」
士郎は曖昧な笑みを浮かべて頷いている。
おかしいと思いながら、その話を、運命を受け入れているようだ。
たとえ家系だと言っても、兄妹の中で身代わりなどと、どういうことなのか。
それに甘んじていた兄も兄だ。
信じられない、どういう神経をしているのか……。
「母は、可哀想だって、自分を愛してくれた。兄はいつも自分を守ってくれたし、年も近くて、学年も一緒で、兄はどこまでも兄だったんだ」
「待て、同学年? 双子ではないのだろう?」
「え? あ、四月と三月とで、ギリギリでさ……」
ああ、そういうタイミングなら、そうなるか。四月のはじめと三月の末なら。
いや、学年などどうでもいい話だ。
「それで」
先を促す。
あの日、士郎を庇って、兄は死んだのだと言う。いや、死んだのは兄であるエミヤシロウだ。こいつはエミヤシロウに庇われて生き残った妹。
母親は、女のままでは長らえられないと思ったのだろう、兄の名である士郎を名乗り、士郎として娘には生きてほしいと願った……。
そうまでして生きさせたかったのは、やはり娘を愛していたからだろう。だが、その愛情が、この衛宮士郎をこんなにも歪なものにしてしまった。
女の身で男として生きようと、母と兄に応えようと、必死に生きて、身体の成長にまで異常をきたして……。
愚かにも程がある。
私も人のことは言えたものではない。だが、これは……、この衛宮士郎は、なぜこんなにも悲しい存在だと思えるのか。
「親父の養子になってからは、普通に――」
「待て」
「え?」
「養父は、なぜ止めなかった。お前が女であることを知っていたのだろう? いくら母親の遺言とはいえ、そんな馬鹿げたことを……」
言いかけて、気づく。
こいつは男としてでなければ、生きようとしなかったのだろう。
生かすために、切嗣はこんな馬鹿げたことを呑み込んで、こいつのためだと思って……、いや、ただ一人見つけた生存者が生きようとしないのを、切嗣は許さなかったのかもしれない。切嗣も縋る思いで、こいつに生きてほしいと思ったのだろう。
だが結局、切嗣も押し付けたのだ。この少女に“たった一人の生き残り”という運命を。
母を失い、自分を庇った兄を失い、その悲しみの中で、士郎として生きろと遺言され、少女は追い詰められた。
引き取られた衛宮切嗣からは、生きてほしいと、たっての願い。
たった七つの少女に、重い運命が圧し掛かった。
潰されまいと、足掻くこともせず、少女はすべてを受け入れるしかなかった。“衛宮士郎”という運命をこの少女は一身に……。
やるせない。
こんな運命を背負ったエミヤシロウがいるとは……。
(ああ、こいつは……、私と同等か、それ以上に愚かで、痛ましい……)
話を聞けばこいつをもう少し理解できるかと思ったが、理解どころか、無条件で私は肩入れしてしまいそうだ。
こいつを幸せにしてやりたい、などと思ってしまう。
この、自身を失って生きてきた衛宮士郎に……。
「そういえば……」
ふと気づく。士郎が、なんだ、と顔を上げる。
「名は?」
「は?」
「名だ」
「衛宮士郎」
「いや、それではなく……」
鈍いな、こいつ。
「本当の名だ」
「本……当……」
覚えていないのだろうか?
「知らない」
目を逸らした。ということは、覚えているのだな。
「知らなくはないだろう。お前の本当の名は、なんだ」
「どうでもいい。俺は衛宮士郎だ。全部話した、もういいだ――」
立ち上がろうとした士郎の腕を掴み、引き寄せる。
「なんっ」
自分でも驚いている。私は何をしているのか。
「アーチャー、ど、どうしたんだ?」
衛宮士郎が腕の中で顔を上げた。
(くそっ、そんな顔で見るな!)
無垢な琥珀色が刺さる。
「何も……」
ええい、何かもっともらしい理由はないか!
「えっ? な、なんっ」
「魔力を……」
「え……? あ、ああ、た、足りない、のか……」
動揺しながら士郎は何度も瞬き、私の腕の中で身を固くする。
速い鼓動が聞こえやしないかと思うが、腕を放す気には……、こいつを離したくない。
「腕が、痛むのか?」
「……いや」
ただ、こうしていたいと思う。魔力など言い訳に過ぎない。
こうしてこいつの熱を感じないと、どこかへ消えていってしまいそうな気がする。
昼間、こいつの姿がないことに呆然とした。昼食を終えた頃までは屋敷にいたのに、少し目を離した間にいなくなっていた。
どこにいるのかもわからない。
どこに行くとも聞いていない。
手探りでこいつを探すことの焦燥といったら、もう、口では言い表せない。
「お前が見つかって、よかった……」
つい声に出てしまった。
見上げてくる琥珀色の瞳が見える。
「…………あのさ……、名前……、シイナ。字は知らないけど」
「そうか、いい名だな」
「意味、知ってて、言ってるか?」
「意味?」
「シイナは粃、中身のない籾だ。中身なんてない、価値なんてないものって意味だよ」
小さく嗤った士郎は目を伏せた。
こいつは自身を貶めることには長けているようだ。
「それはシイナという一文字での意味だろう。シイ、ナと分けるなら、シイという樹木は常緑の高木だ。伐採にも強く、森を構成する樹木の一種。果実はいわゆるドングリだが、ドングリは縄文時代から食べられていた。そんな樹木が価値のないものだとは、到底思えないが?」
「そんなの、こじつけだろ……」
「少なくとも、私にとっては、価値のないものではない」
「ああ、少ないけど魔力はあるから……」
「魔力など、関係ない」
「え?」
驚いた顔で見上げてくる士郎の頬に触れる。
「アーチャー?」
不思議そうに私を見上げる子供のような表情。十七になるというのに、十年前の七つの子供と変わらないのではないかと思える。
「士郎、いや、シイナ。お前が生きていることが、私の存在意義だ」
「え……」
「お前が心から笑える日まで、心底楽しいと思える日まで、いや、楽しい人生だったと息を引き取る瞬間まで、お前を見届けてやる」
驚きに満ちた琥珀色の瞳。
この瞳が輝きを失わないように、私はこの衛宮士郎となってしまったシイナという少女を守っていこう。
こいつが大好きだったという兄の代わりでもいい。捨ててしまった自身の生を取り戻すために、私はこいつの傍らに立つ。
「シイナ、いついかなる時も、私はお前の傍にいると誓おう」
「な……、あん、た、それ……、結婚式で言うような、こと……」
真っ赤になったシイナに思わず笑みがこぼれる。
「そう取ってもらっても、かまわない」
「んなっ、バ、バカ、なに、なに、なに、言って、アーチャー、へ、変に、なった、のか!」
「いたって正常だが?」
真面目に返すと、耳まで赤くして、シイナは私の胸元に顔を埋めてしまった。
***
「知ってたわよ」
「えっ?」
遠坂がさも当然と言うような顔をする。
女だってことがバレてたことをバラされて動揺する自分もどうかと思うが……。
「い、いつから?」
「居候を解消した時から、かしら?」