粃 ――シイナ――
墓場まで持っていこうとした名を呼ぶエミヤシロウに、どんどん引きずり込まれていく。
小さく息を吐いて着替えをはじめた。
胸にさらしを巻いて、シャツを着る。
「卒業までは、どうにか隠したいけどな……」
このままどんどん胸が大きくなってしまったら、どうやって隠そうか。
少し、先が思いやられた。
***
「なあ、アーチャー」
朝食を作っていると、士郎が小声で呼ぶ。
「ホントの名前は、二人の時だけな。えっと、誰もいないとき……、夜とかだけで、頼む」
何を言うかと思えば……。
何を生真面目に当然のことをわざわざ頼んでくるのか、こいつは。
本当にこいつは、何もわかっていない。
その名を私だけが知っている、ということの意味を、わかっているのか、いないのか……。
まったく、これでは、先が思いやられる。
こいつは私の執着など、欠片も想像していないのだろうな。
あまり無関心が過ぎると、襲うぞ、たわけが。
「当たり前だ、たわけ」
ぴん、と額を指で弾いてやった。
「いッ! い、一応、確認だよ、そんなに怒らなくても……」
士郎は首を竦める。拗ねたような横顔が少し照れ臭そうだったので、まあ、許してやるか。
ふと、その胸元に目が行く。
(こいつ……)
少々、自身を抑えるのに、時を擁した。
「士郎……」
「なに?」
見上げる琥珀にため息をあらぬ方へ吐く。
「また、着けていないな!」
言いながらその胸を鷲掴み、睨みつけた。
「バ、バッカ! やめろ! こ、これから、着けるんだ!」
つん、とシャツを持ち上げる胸の膨らみに、眉間に力が入る。
「む。また育ったか……」
「え? ウソ……」
自分の胸元を見下ろす士郎に、またしてもため息がこぼれた。
「もう一度、凛にでも見てもらえ。そして、下着を見繕ってもらえ。それでは学校生活に支障をきたす」
「別に、何も支障はないけど?」
「…………」
目を据わらせると、士郎は何かまずいことを言ったと理解したようだ。
「そんな状態で学校へ行ってみろ、男どもの餌食だぞ、マスター」
「そ、そんなの、あるわけないだろ!」
真っ赤になって士郎は台所を出ていった。
「まったく……」
無自覚にも程がある。
いつまでも冬服ではないのだ。
日中、熱くなれば上着を脱ぐだろう。脱がなくとも襟を開けていれば見える可能性もある。それに、不自然な膨らみがあることに、気づく者も出てくるかもしれない。
「あいつは、何もわかっていない……」
このところ士郎の成長が著しい。元々が細身であるために、やたらと胸の膨らみが強調されてきている。
「目のやり場に困るだろうが……」
ほんのひと月前など、ぺったんこに毛がはえた程だったのが、今は掴める程になっている。
「柔らかい……、もう少し大きいと、ちょうどいい……」
己の掌を見つめ、閉じて開く。
ハッとした。
(いやいや、今、何を呟いた、オレ?)
額に軽く拳を当てて、自身を落ち着かせる。
「アレは妹、アレは妹、アレは妹、アレは、妹のようなものだ、アレは……」
妹、だろうか?
私に血を分けた兄弟などいない、まして妹など言うまでもない。妹のような後輩はいたし、姉のような教師も、同級生もいた。
わきわき、と掌を閉じて開く。前の感触が離れない。
「んー……」
ごん、と壁に頭を打ちつけながら預ける。
何を考えているのか、私は……。
アレは見守るだけの存在だというのに……。
「しっかりしろ、オレ」
声に出して、言い聞かせてみた。
その日の午後、士郎は凛に腕を引かれて帰ってきた。
「アーチャー!」
凛の怒りを含んだ声に、取り込んだ洗濯物を片手に居間へ向かうと、正座した士郎の前に仁王立ちの凛がいた。
「凛……、いったい、どうした……」
訊かずともわかりそうな状況だが、とりあえず訊いておく。
「どうしたもこうしたもないわよ! あんた、こんなままで士郎を学校に見送ったのっ?」
こんなまま、とは、どんなままだ。
「下着もロクに着けないで、なに考えてんのよ、あんたたちは!」
「私は今朝、指摘したが?」
「そのまま行かせたでしょ!」
「いや、あとで着けると……」
「着けてないでしょ!」
士郎を見ると、制服の下にはカットソー、その下にはおそらくタンクトップ一枚、という姿だ。
「ん?」
首を傾げる。
朝、下着を着けていないことを私が指摘したはずだ。なぜ着けていないのか。
「なんだって、そんな姿で学校に来たのよ!」
凛に詰め寄られて、士郎は困り果て、やがて白状した。
「キツくて……」
「は?」
凛が呆気に取られている。
「キ、キツくて、止まんなくって、さらしも巻く時間なくて、半日くらい、いっかって……」
土曜日なので半日で授業は終わる。それまで士郎は上着を着ていればどうにかなると思っていたらしい。
「ちょっと待って、キツいって、先週、新調したやつでしょ?」
「う、うん……」
額を押さえ、凛はため息をついた。
「もー! だったら、電話くらいしなさいよぉ! とりあえずは私の貸してあげるのに!」
「ごめん」
「わかったわ。じゃ、また、買いに行きましょ」
「えー!」
士郎は不満げな声を上げるが、凛の一睨みで黙った。凛は遠坂邸にいるセイバーと何事か話している。
「今、セイバーに持ってきてもらうから」
「また?」
「そうよ。下着売り場にその制服で行く気?」
「う……」
士郎の完敗だ。
とりあえず、めどが立ったところで、私の用もこれまでかと、洗濯物をたたもうとするが、
「アーチャー、ちょっと」
と、凛に居間から連れ出された。
「ちょっと、どういうつもり?」
「何がだ?」
「とぼけないで! あれは、どう考えてもあんたのせいでしょ!」
「なぜ、私が?」
「士郎が女になろうとしてるのは、あんたのせいでしょ!」
「どうしてそうなる……」
「わからないの? あんたに女として見てもらいたいからよ!」
凛の言葉に、ぽかん、とする。
「十年も男で生きてきた士郎が、いつ次元かの未来の自分に絆されちゃってんのよ!」
だから、急激に身体が成長しているのだと凛は言う。
驚いた。
独りで抱えていた懊悩を私と共有したことで、精神的に楽になったことから、今まで滞っていた成長がここに来て一気に溢れたのだと思っていた。
身体の成長は、衛宮士郎として生きなければ、という抑圧から解放されたからだと思っていた。
それが、私のせいだ、などと……。
思ってもみなかった。
凛の言葉はとてつもない幸福感をもたらした。
(オレの、ため……?)
士郎が女になろうとしている。
男でなければ生きられなかった士郎が、私を意識するがゆえに女になろうとしている……?
「にやける暇があったら、もうちょっと気を回すように気づかせてやんなさいよね、まったく」
凛に指摘され、思わず口元を覆った。
「凛! 遅くなりました。これで良かったですか」
セイバーが何やら大きな手提げ袋を肩にかけて慌てて衛宮邸に上がりこんできた。
「凛、いったい何がはじま――」
「はい、アーチャーは出ててね」
答えはもらえず、居間から追い出されて、仕方なく干していた布団をしまいに向かう。