粃 ――シイナ――
居間からは凛のあーでもない、こーでもない、というような声が聞こえていた。
布団をしまい、居間に戻ったものの、中からの物音が取り込み中に思え、しばし待つことにした。
「ねぇ、そろそろスカートに挑戦しない?」
「ぜったい、嫌だ」
不貞腐れた士郎の声が聞こえる。そうだな、それは私も賛成できない。どう見ても女装にしか見えないだろう。
「カワイイのにー」
残念そうな凛の声。
そんなわけがない、衛宮士郎だぞ、凛の目は大丈夫か?
「可愛くない!」
「いいえ、シロウ、とても可愛いですよ」
「セイバーまで……」
士郎と同意見だ。
セイバーまでもそんなことを言い出して……。凛に相当感化されているな。
心の支えだと思っていたセイバーにそう言われては、士郎は何も言えなくなるだろう。
気持ちはわからなくはないぞ、士郎……。
それにしても、私はいつまで居間に入れないのか……。
「凛、入ってもいいか? 洗濯物がそのままで、」
言い終わらぬうちに居間の障子が開いて、絶句した。
「どお? かーわいいでしょ?」
凛に無理やり振り向かされて、ご対面状態の士郎を凝視してしまう。
「スカートはまだ抵抗あるみたいだけど、パンツスタイルならどうにかってところよね、士郎?」
「もう、早く、行こうって!」
「あら、いいじゃない、アーチャーに点数でもつけてもらえば? 料理の点数はつけてもらってるでしょ?」
「いい! もう、いいっ!」
逃げるように、スタスタと玄関に向かう士郎を凛が追いかけていく。
「アーチャー? どうしました?」
「あ、ああ、気をつけて行ってくるといい」
「ええ。ところで、何点ですか?」
「う……」
ずい、とセイバーに詰め寄られ、目を逸らす。
「その様子からすると、九十点は超えていますね!」
いたずら小僧のように笑ったセイバーに反論できず、そのまま見送った。
「反則だろ、あれ……」
思わず、素が出てしまった。
***
「驚きよねー、サイズが二つも飛び越えちゃってて」
「はい。驚きです。さすがです、アーチャー」
「そこ、褒めるところかしら?」
呆れながら言って、士郎に目を向けた。
「でも、いい傾向よね。誰かを想うことで、自分が変わっていくなんて。士郎のは極端だけど」
「ええ。元々が特殊でしたから、一気にこう、溢れてしまったのでしょう」
「大変ね、これから、アーチャーは……」
「おそらく、もうすでに、というところでしょうか」
「あいつが嫉妬にでも狂ったら、すっごく面白いわね」
私が愉しそうなのを見て、セイバーは苦笑いを浮かべている。
「アーチャーにも、いい傾向かもしれません」
「そうね」
「おそらく、もう二度と座に戻るとは言い出さないでしょう」
「ほんとに。歪な二人のエミヤシロウを見守っていくのも悪くないわね」
「ええ」
セイバーは大きく頷いた。
***
玄関を開けると、驚く光景に声すら出ない。
「た、ただいま……」
アーチャーが玄関の上がり口に仁王立ちしている。
「あの……?」
「……遅い」
「え?」
「何時だと思っている! 日が暮れて、途中までは凛と一緒だったろうが、そこからは一人だろう!」
「えと、まだ、六……時……半……」
確かに日没後は暗くなってきたけど、まだ高校生には、それほど遅い時間帯じゃない。
「心配させるな。誰かに襲われでもしたのかと、気が気ではなかった」
いきなり抱き寄せられて、顔が熱くなる。
「そ、そんなの、いないって……」
アーチャーの丸くなった背中を撫でると、
「シイナは、何もわかっていない……」
拗ねたような声に、紙袋を持っまま腕を回す。
「そんな奴いたら、叩きのめしてくるって」
やけに過保護なアーチャーを安心させようと思ったのに、だめだ、と止められた。
「私が叩きのめす」
「そんなことしたら、そいつ、死んじゃうって」
居間へ向かう少しの距離なのに手を握られている。
うれしいけど、照れ臭い。
顔の熱を手の甲を当てて冷ました。
***
桜の蕾が膨らんでいる。来週辺り咲きはじめるだろう、と士郎は見上げた枝先に目を細めた。
黒い筒を持って、友人たちと校舎を出る。
在校生たちが拍手で見送る中、卒業生たちは笑いながら校門へと向かう。
穂群原学園の卒業式も無事に終わった。
士郎は校門のあたりを見渡す。目的の姿が見えず、どこへ行ったのかと校庭の方へも目を向けた。
クラスメイトたちは、写真を撮り合い、思い出話に花を咲かせている。
「衛宮、夕方から来れるか?」
肩を叩かれ、振り返って、
「ごめん、俺、出られないんだ」
と、士郎は校庭の向こうの雑木林に向かった。
「おーい、衛宮?」
何人かに呼ばれたが、悪い、と手を振って駆け出す。
雑木林の中に立つ、青い空を見上げた背の高い男。
きっちりスーツを着込んで、保護者席の中でひと際目立っていた同居人。
「アーチャー!」
振り返ったその顔が緩やかに笑みを浮かべる。
そんな表情にすらうれしくなって、足を速めて、木の根に躓き、つんのめってしまう。
慌てて腕を伸ばしたアーチャーに、士郎は飛びついた。
「卒業おめでとう、シイナ」
抱きとめられて、そのまま抱え上げられ、士郎はアーチャーを見下ろす。
二人の時は本当の名を呼ぶアーチャーに、士郎もずいぶん慣れた。
照れ臭さよりも、今はうれしさが勝っている。
士郎はずっと思っていたことを言おうと、少し緊張しながら口を開く。
「えっと……、あ、あり、がとう、シロウ」
「なん……、シイナ?」
驚きに満ちた鈍色の瞳。
「アーチャーはエミヤシロウだろう? もう誰も呼んでくれなくなった自分の名前呼んでくれるアーチャーにも、ちゃんとした名前があったんだって思ってさ、ずっと、呼びたかったんだ」
照れ臭そうに笑った士郎に、アーチャーは目を細める。
「私の名も誰も呼ばなくなった。我々は、同類だな」
「ハハ、ほんとだ」
笑う士郎を、アーチャーはじっと見つめる。
「どうした?」
そっと士郎を地に下ろしたアーチャーは、穏やかな微笑を浮かべている。
「お前の笑った顔が眩しくてな」
耳まで熱くなるようなことを言うアーチャーを士郎が上目で見上げると、可笑しそうに笑っている。
「シロウもいっぱい笑ってくれるようになったよ」
「ああ。シイナのおかげでな」
蕾の桜の木の下で、差し伸べられた手を取る。
歩いていこうか、と低い声が誘う。
それに頷く自分の顔は、きっと笑顔が浮かんでいたはずだ。
◇◇◇ ◇◇◇
月が欲しいと言いました。
優しい光だけでもくださいと。
けれど、空の月は遠く、
全く手が届きません。
代わりに温かい手を取りました。
ともに歩いていくのなら、
この手を光と思っていけると。
温かい手が差し伸べられて、
誓いを立てた優しい英霊が、
歩いていこうと導いてくれるから、
自分の道を生きていけると思いました。
◇◇◇ ◇◇◇
シイナは成人することはなかった。
二十歳の誕生日を迎える前に倒れ、回復することなく、あっけなく息を引き取った。