粃 ――シイナ――
思考する間もなく視界は、白っぽい天井の広がる光景に移った。
養父が病室を訪れた。
『君は今日から士郎だよ。衛宮士郎、僕の息子だ』
記憶の中の養父とは違う言い回し。
今から? 今日から?
何が今からだ。
士郎という名は、生まれた時からの……。
今から士郎、とはどういうことだ?
瞼を上げると窓の外が白んでいた。
衛宮邸の別棟にある洋室のベッドに座って、窓枠に頭を預けた。
「誰の記憶だ……これは……」
何度もこぼした呟き。
(衛宮士郎がひた隠そうとする真実はなんだ……)
少々苛立つ。
(この世界の衛宮士郎は、衛宮士郎ではないのか? 私は全くの別人を消そうとしたのか?)
そんなことに思い至って目を瞑る。
いや、違う、と首を振る。
(そんなはずがない。あれは衛宮士郎だ。あの固有結界は、あの剣製は、衛宮士郎以外の何者でもない……)
ふ、とため息をついて目を開けた。
「正体など、どうでもいいが……。このままでは、納得がいかない」
衛宮士郎に全てを吐かせてやる。勢い込んで立ち上がった。
「衛宮士郎」
私の声に瞼を薄っすら開けた。枕元に腕組みして立つ私に琥珀色が向けられる。
「な……に……?」
窓の外は明るくなってきたが、陽が昇ってもいない早朝に現れた私に、
「いきなりだな」
と、衛宮士郎は目を擦りつつ身体を起こす。
「なんだよ、また殺したいとか、思いはじめたのかよ?」
少々殺気立ってしまっていたようだ。
「そうではない。きっちりと、説明してもらおうと思っているだけだ」
「明らかに、脅しに来たようにしか見えないけど?」
あくび交じりに衛宮士郎は頭を掻く。
「あの女性は誰だ。それから、貴様は誰だ。“士郎”はあの日、死んだのではないのか。衛宮切嗣に拾われたのは、士郎ではない者だろう」
衛宮士郎は沈黙している。
「間違っているか?」
言い逃れは許さない。はっきりさせるまでは一歩も引くつもりはない。
ちょいちょい、と手招きされて、座れ、と衛宮士郎は示唆する。
「む……」
おとなしく言うことをきくのも腑に落ちないが、話を聞かなければ気がおさまらない。布団の側に正座すると、衛宮士郎も正座して向き合い、姿勢を正した。
「そうだよ」
目を合わせて、衛宮士郎ははっきりと答える。
「俺は、士郎じゃない。士郎は兄だった」
驚きを隠せなかった。目を剥いたまま言葉を失った。
兄?
兄弟が、いた?
どういうことだ。私には血を分けた兄弟などいた覚えは……。
「あの日、士郎は死んでしまった。たぶん、俺を庇って……」
「なぜ……、士郎を名乗った……」
何度か瞬いて、衛宮士郎は視線を落とした。
「母親の……、遺言だ」
「そうか……」
眉間に力が籠もる。おそらく深いシワが刻まれていることだろう。
「なぜ……、名を変える必要がある?」
「そこまでは……、知らない……」
衛宮士郎は俯いたまま、ぽつり、と答える。
「……そうか」
立ち上がって、衛宮士郎の部屋を出た。
居間へと向かいながら、どうにもまだすっきりとしない。
「兄弟がいたとは……」
あの日に“士郎”が死に、今の衛宮士郎が兄の名である士郎を名乗った。
なぜ、そんなことをする必要があるのか。
母親はよほど士郎を愛してでもいたのか?
それでその名を残したかった?
いや、そういうふうでもない様子だった。母親だという女性からは、この衛宮士郎に対する愛情のようなものが感じられた。
士郎という名に、何かあるのか?
いや、そういうことではないだろう。
その理由を確かめるには、あの大火災の以前の記憶が必要だ。だが、それは私にはもうない。
衛宮士郎はあの日以前の記憶を持っているのだろうか?
いや、衛宮士郎もその辺りの理由は知らないようだった。
もう、そういうことだ、と納得するしかない。
十年前のあの地の戸籍など残ってもいないだろう。
確かめる術がない。
だが、どうにも引っかかる。
腑に落ちない。
衛宮士郎はあの日のことを訊くと辛そうだ。あまりほじくり返すのも気が引ける。
「少し、時間を置くか……?」
あの夢のことはいったん忘れることにした方がいいか?
だが、衛宮士郎と向き合うには、そこをどうにかしなければならない気もするのだが……。
「どう、すべきか……」
今すぐに答えは見つからないが、外堀を埋めていくことにするか?
アレを私のようにさせないためには、もう少し歩み寄らねばならない。
仕方がない、私が譲歩してやるとしよう。
しばらく様子を見ることに決めた。
***
アーチャーの背を見送って、正座を崩す。
「は……」
嘘じゃない、嘘は言ってない。
心苦しさに言い訳を思った。
母の遺言は、士郎となって男として生きろ、ということだった。
兄の身代わりとなるはずだった自分が生き残ってしまったんだ、それは幼い自分でも理解できた。なにせ、“女の身で成人することは難しい”というのが母の口癖だったから。
兄の身代わりになってしまう運命だと、この家の女子は成人することが難しいのだと、言われ続けた日々。
幼い頃の記憶はそればかりだ。
呪われているのだ、生きられないのだ、と狂ったように繰り返す母が泣きながら可哀想にと抱きしめてくれた。
今も耳について残る声は、優しくて悲しい記憶。
士郎を名乗ったのは必然だとずっと思っていた。
けれど、別次元のエミヤシロウが目の前にいる。そう思うと、自分がいかに半端で、おかしな存在かがありありと示される。
「嘘は、言ってない……」
だけど、真実じゃない。
アーチャーを騙しているようで、心苦しい、申し訳なく思う。
(あの夢の疑問は、一応アーチャーの中では払拭されただろうけど……)
苦いため息を吐く。
夢に苛まれているのは、アーチャーだけじゃない。
自分もずっとあの日の夢を見ている。
アーチャーが見ているものと同じ。仕方がない自分から流れていっているものだから。
「おにいちゃん、か……」
目を閉じても面影は浮かばない。
大好きだったのに、あんなに仲がよかったのに、兄はあの真っ黒な塊でしかない。
兄は四月、自分は翌年の三月に産まれ、双子ではない兄妹なのに同級生だった。
仲がよかった。兄は優しくて、まだ十にもならないのに、ヒーローみたいに正義感の塊で、いつも自分を守ってくれた。
兄が大好きだった。
けれど、あの日、大好きな兄は、真っ黒い塊になってしまった。自分を庇ってくれたのだと思う。
優しい手は黒い棒のようになっていて、些細な約束で指切りをした指は見あたらなかった……。
今思えば、自分はあの日に死ぬ運命の忌み子だったはずだ。
ずっと、母はそう言って兄と自分を育ててきた。いつ兄の身代わりになるのかもわからない自分を、兄のために死んでしまう自分を、可哀想だと言って母は愛してくれた。
それなのに兄が身代わりになって、真っ黒な塊になった。
おかしな運命、おかしなあの日。
兄が自分で、自分が兄になった日。
食い違った運命はどこまで続いていくのだろう。