粃 ――シイナ――
苛立ちの原因はようとして知れる。衛宮士郎が実は女だったという、その事実。
「は……」
扉の横で座り込んだ。
「オレは、何をやっているんだろうな……」
契約して、現界して、毎日毎日、同じメンツと面つき合わせ、戦うでもなく殺すでもなく、ただ安穏と日々を過ごしている。
人としての生をとっくに終えた私が、今また人のような生活というものをしていることが不思議で仕方がない。
その上、主となった士郎が実は女だったなど、予想外もいいところだ。
扱いに困る。つい力が入りそうになるのをいつも寸前で押し留める。
男女の違いは、やはり己を戒める。
たとえ消し去りたかった衛宮士郎が女だからといって、これほどに気を遣うこともないはずだ。力任せに組み伏せる、などと大人げないことはしないが、こつき合いなら普通の男女でもあるはず……。
(だが、私は……)
こつくことなどできない。触れるのなら優しくしたい。
どうかしている、としか言いようがない。
片手で額を押さえ、立てた膝に肘をつく。
「もう……、わけがわからない……」
何度もこぼしたため息がまたこぼれた時、扉が開いた。
「っ……」
私に気づいた士郎が、びく、と肩を揺らす。
(なんだ、その反応……)
苛立ちが募る。
無反応でいると、士郎が傍に膝をついた。
「どうした? 何か、」
「何もない」
遮るように声を被せたが、士郎は顔を曇らせるだけで立ち上がろうともしない。
「何もないと言った。さっさと行け」
「でも……」
心配そうな顔で見ている士郎に一瞥をくれて立ち上がる。こちらから離れることにした。
「アーチャー?」
答えずに背を向けて歩き出す。士郎が立ち上がる気配がする、と同時に駆けて来て、私の腕を捕まえた。
「なんだ」
振り返ることもなく訊くが、答えがない。
「何か用があるなら、早く言え」
声に苛立ちを含ませれば、さすがに士郎も離れると思った。だが、
「……ごめん」
謝られた。
「何がだ」
なんの謝罪かもわからない。
腕が解放された。少し顔を傾けて振り向くと、俯いたままの士郎が、ぽつり、と呟いた。
「引き留めて、ごめん……」
「ああ」
なんの用もないのに引き止めたのか、と歩き出した。
「……って、ほし……っ……なかっ……、あそこに……かえっ…………、なかっ……」
その声に、背後の様子に、異変を感じた。
振り返ると主である士郎が立っている。訝しさで眇めた目を瞠った。
俯いて、細い肩が震えて、必死に嗚咽を飲みながら、言葉を編もうとしている士郎がいた。
「士郎……何を……」
今のこの数瞬の間に、何がどうなったのかわからない。
振り向けば士郎が立ち尽くして泣いていた。
「な……にが……」
何を言えばいいのかわからない。
(だが……)
士郎の前に戻る。俯いた赤銅色の髪はまだ濡れている。
そっとその髪に触れると、びく、と身体を竦ませる士郎は、ずっと何かを呟いている。
何が起きているのかも、何を言えばいいのかもわからないが、泣いてる女の扱いなら知っている。
そっと細い肩を抱き寄せ、腕の中に包んだ。
硬直した士郎の身体に苦笑しながら、背中を優しく撫でてやる。落ち着いてきたのか力が抜けて、されるがままに身体を預けてきた。
「ごめん……、ごめんな、アーチャー……」
何を謝っているのかも見当がつかず、黙っていると、
「戻ってほしくなくて……まだ、傍にいてほしくて……、契約なんかして、ごめん……」
「何を言っている。貴様が見届けろと言ったのだろう」
「でも、嫌だろ……、魔力が少なくて、こんな……、家政婦と変わらない……」
「まあ、確かにそうだが……」
「ワガママ言ったら、ダメなんだって……、わかってたのに、俺、あんたに傍にいてほしいって、思ってしまって……」
「…………士郎、あのな……」
呆れてきた。
何をこいつは、まったく……。
そういうセリフを、どうして私に吐くのか……。
「士郎、そういうことを言うとだな、誘われていると、普通の男なら勘違いしてしまうぞ」
「え?」
顔を上げて見上げてくる琥珀色は涙で滲んでいる。
抱きしめた腕をほどき、その細い肩に手を載せた。
「まったく……。もう少し、自己防衛本能を養え、未熟者」
ぴん、と額を弾いて、ぽかん、とした士郎の顔を覗き込むように腰を屈める。
「自己防衛? えっと、なに?」
「むやみやたらと、男を煽るな、と言っているのだ、たわけ」
アホみたいに開いたままの唇に軽く口づけると、ぼんやりしていた士郎が数度瞬き、やがて耳まで赤くなった。
「っっっ!」
言葉も忘れてしまったようだ。
まったく、未熟すぎて笑えてくる。
「こ、こ、この、この、せ、セク、ハラ、さ、サーヴァンっ、ト!」
噛み噛みで文句を垂れている。
「隙だらけだから、そういうことになる、覚えておけ、未熟者」
嘲笑ってやれば、羞恥を怒りに変えて士郎は喚いていたが、放置してやった。
***
風呂から出ると、戸口にアーチャーが座り込んでいた。
もしかして魔力が切れそうなのかと思って傍に膝をついて訊いたけど、不機嫌に何もない、と返された。
だけど、何もないのに、こんな所に座り込んでるなんて、おかしい。
「何もないと言った。さっさと行け」
「でも……」
鈍色の瞳で自分をひと睨みして、アーチャーは立ち上がった。
「アーチャー?」
何も言わずに行ってしまう。なんだかわからない不安に押しつぶされそうで、立ち上がると同時に駆けて、アーチャーの腕を捕まえた。
「なんだ」
振り返ることもなく訊かれて、何も答えられない。
「何か用があるなら、早く言え」
苛立った声だった。
剣を交えた時と同じような声だと思った。何もかもを消し去ってしまいたい、とアーチャーが自分に刃を向けた、あの時と。
少ない魔力で現界かつかつで、人の気配すら悟れなくて、それでも自分と契約をしてしまったから、自由にはなれない。
今さら自分が大それたことをやってしまったと気づいた。この英霊に、とんでもない横暴を働いたと、気づいた。
「……ごめん」
「何がだ」
アーチャーを捕まえていることがとてつもない罪悪のような気がして、その腕を掴んだ手を離した。顔が上げられない。俯いたままで謝る。
「引き留めて、ごめん……」
「ああ」
アーチャーが離れていく気配を感じて喉が詰まった。見ていた足元の床が滲んでいく。
「……戻って、ほしくなかったんだ……、あそこに……還ってほしく、なかっ……」
うまく話せない。拳を握った。
それに声もあまり出なくて、息苦しい。
胸が痞えた感じがして、肩が震える。
おかしいと思いながら、必死にアーチャーに謝らなければ、と声を出そうとした。
だけど、全然うまくいかない。
謝りたいのに、言葉が、紡げない。
「士郎……何を……」
答えることができなくて、握りしめた拳にさらに力が籠もる。
「な……にが……」
引き留めてしまったことを謝りたい。
だけど、アーチャーが行ってしまうのが嫌だ。アーチャーが消えてしまうのが嫌だ。あそこに還ってしまうのが、嫌だ。
そっと髪に触れる手を感じて、びっくりした。