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 代わりに取り上げたのは街の貸本屋で借り受けてきた通俗書だ。当面この地に留まるという予定は聞いているし、また時間の空いた時に返しに行くくらいはできるだろう。
 手擦れのできた書物はいつの時期書かれたか分からぬ旅行記だった。出てくる地名はヴァルム大陸のものばかりで、当然ながらほとんど馴染みが無い。旅行などままならぬ庶民のために書かれた本らしく、風光明媚な土地の情景や名物料理などの描写が少々行き過ぎではないかと思うほどに面白可笑しく表現されている。
 この手の本をロランは結構好んで読んだ。内容の面白さもさることながら、文化や風習などが透けて見える。読了後地学書を引っ張り出して比較吟味するのがまた楽しいのだ。
 書見用の携帯燭台に火を入れて頁を繰っていると、天幕入り口の垂れ布が僅かに揺れた。
 この天幕はロランの他にジェロームとブレディが割り当てられている。下級兵のように六人まとめて一つ所へ放り込んでもいいが、それだとなかなか息苦しいだろうとニヤニヤ笑ったのはもちろんこの軍の軍師だ。
 確かに常に機嫌の悪い人間が確実に何人か出たに違いない。そして天幕の中に入ってきたのは、そういう配慮関係無くいつも機嫌が悪そうに見える男だった。……実際にはそう見えるだけでそう機嫌が悪い訳でもないのだが。
 目ざとく木箱の油紙に気づき、ブレディは軽く顔をしかめて隣の寝台にどかりと腰掛けた。別に怒っている訳では無く単に興味を引いただけなのだが。
「何だ、そりゃ」
「マークと街へ行ってきましてね」
「ああ、引っ張り回されたな。ご苦労なこった」
「そうでもありませんよ。あの街の雰囲気を実際に見る事ができましたし、噂話も仕入れる事ができましたからね」
「そういうのは別の奴のお仕事だろう」
「そうですが、伝聞と実体験はまた別ですよ」
「へ。確かにそうかもしれんがな、俺はああいう場所はちっと苦手だ」
「確かに貴方は静かな場所の方がお好みかもしれませんね」
「そういうのじゃないんだよ、たぶん『俺達』の中でああした場所に抵抗が無いのはお前とマークぐらいだぜ」
 意外な言葉だった。そして、今更ながらそうした事をいちいち話した事がなかった事にも思い至った。
 同じ場所から時を渡ってきた同士だというのに、何故かそうした内心について語り合った事は少ない。敢えて言うならジェロームとは多少分かり合ったつもりでいたが、それも腹を割って話をしたという訳では無いのだ。
 自分達が男という事もあるだろうが――とかく女性はお喋りが好きなものだから――その辺はなかなかに難しく面倒なものだ。
 ロランの視線に気づいたか、ブレディは懐から何やら取り出しながら(見た所何かの処方箋のようだ)ぼそぼそと呟いた。
「嫌いじゃないんだぜ、ちっと賑やかなだけでな。抵抗っつーか、違和感? ま、そのうち慣れるんだろうけどな、行軍に付き合ってちゃそうそう行く場所でもあるまいしよ」
「確かに……そうですね」
 だがロランは慣れていたのだ。
 理由は考えるまでもなかった。三年間、という言葉がすぐ頭に浮かんだ。
 ルキナより遡る事二年前、そして彼らと合流するまでおよそ一年と少し。ロランは全く知らない世界を生きてきた。幸い元の世界よりは生き延びる事自体は簡単だったが、あらゆる意味でこの世界は異界だった。
 最初に街中へ足を踏み入れた時の緊張感を思い出す。どういう状況だったろうか? 自発的な行為ではなかった。最初に彼を拾ってくれたのは郊外に住まう素朴な農家の人々だったからだ。彼らに何やら頼まれたのだったか、その辺は少し曖昧だ……
 端から声をかけられている事に気がついた。ブレディはロランがぼんやりしている事に気付かず言葉を続けていたのだ。手元の処方箋を見ながらなのだからそうもなるだろう。
「それの中身、何だ?」
「ええと、はい。布です」
「何だそりゃ? はんけちーふって奴か?」
「いえ、ご婦人用の洗顔布だそうですが、眼鏡を拭くのにも丁度良いかと思って」
「ははあ、なるほどな。そういやリズんとこにもあったな、それ」
 何故か彼の母親の名前では無くウードの母親の名が出たが、彼女達は仲が良くよく一緒にいるから必然的にそうなったのだろう。
 どうやら納得したらしいブレディは処方箋の内容を真剣に吟味し始め(恐らくマリアベルがしたためたものだろう)ロランは油紙を眺めながら内側へ向かう思考に沈んだ。

「あー、あれはですね。ちょっとロランさんを試したんです! ごめんなさいっ」
 全然謝罪している風でもなく、マークは口だけはそう言うと音を立てて両手を合わせ頭を下げた。ぱちりという派手な音に自然周囲の視線は集まり、ロランは慌てて彼女の袖を引き近くの天幕の中へ引っ込んだ。
 そこは物資が置かれた物置で、元々彼はそこへ向かっていたのだ。しかし傍目にはますます誤解を招く行為だったと気づいたのはマークが妙な笑みを浮かべて見上げている事に気付いた後だった。
 慌てて手を離した彼女の袖口は黒地に褐色かかった金の派手な袖口飾り、よく分からない紋様が染め抜かれた、つまりいつもの外套だ。一瞬意味も無く違和感を感じたのは、先日の外出について考えていたからに他ならない。
「いやあ、ロランさんは積極的ですねえ」
「どうしてそうなりますか! と言うより、一体何を試したというんですか。別に謎かけに付き合った記憶は無いのですが」
「やー、ロランさん慣れてるなって思って。そんな気はしてたんですよね~、一回確認したいな! とも思ってたんで、雑費消費ついでに便乗しちゃいました。えへへ」
「確認……便乗ですって?」
「あの眼鏡拭き、気に入りました?」
「ええ、それはまあ。使い勝手も良いですね」
「それは良かった! マークちゃんの見立ても中々でしょ?」
「そうですね、その……もっと奇抜なものを勧めてくるかと思っていましたよ」
「私、その辺割と父親似みたいですよ」
 確かにその通りらしい。
「それで、ですねぇ。私が便乗したかった事なんですけど」
「ええ」
「ロランさんの、雑費消費っぷりをね、見たかったんです!」
 意味不明。そんな言葉が脳裏を過ぎり、顔に出したつもりはなかったが何しろ相手はその辺妙に鋭いマークだ、一瞬で見破られてしまった。
「あの日の買い物、覚えてます?」
「それはもう。貴女が散々冷やかした挙げ句、インク壺一つ買って僕にあの布を勧めてきましたね。優に二時間はかかりましたけれど」
 微量の厭味も込めて告げると、マークはその部分を華麗にすっ飛ばして頷いた。
「お買い物の間、ロランさんは結構暇そうでしたねぇ! 文具と貸本屋だけは熱心でしたけど、特に貸本屋は目の色が違いましたね! さすが勉強熱心」
「借りた本の内容は、勉強熱心、と言われるようなものでもありませんでしたけどね」
「いやあ、文字を読むのもあんまり好きじゃ無いって人も多いですよぉ。父さん曰くこの軍の兵隊さん達、四分の一くらいはまともに読み書きできないそうですし」
 そう言い止して、マークは首をぶるりと振った。どうやら話が逸れかけたらしい。
作品名:必要経費 作家名:下町