わたしにとって、あなたにとって
そのとき、ルヴァは無音の世界にいた。
うっすらと目を開けてみても、天と地がどこにあるのかすら分からないような漆黒の闇の中に漂っていた。
水を飲んで息苦しかった感覚は消えて、寒さからもすっかり解放されていた。
(ここは……? さっき、私は溺れてしまったと思うんですが……ああ、死んでしまったんでしょうかね)
ぐるりと周囲を見渡しても何も見えない。
(考えていたよりあっけないものですねえ。でも……これで、見なくて済みます)
そこへどこからかアンスタンの声が聞こえてきた。
「見なくて済む、とは?」
きっとここは死後に訪れる場所。それならば心に抑え込んできた本音を吐き出してしまっても、誰にも迷惑はかからないのではないか────ルヴァはそう考えて、ぽつりぽつりと語り始める。
(……私以外の誰かを愛するアンジェリークを見ていられないんです。たとえアンスタン、あなたであっても)
「それでもあなたは戻らなければね。守護聖というものはすぐには見つかりませんよ」
どっちが理性だ、とツッコミたくなるアンスタンの言葉に、自嘲気味に答えた。
(あなたがそのまま地の守護聖として生きていけばいいじゃないですか。サクリアもあることですし……それに)
「それに?」
アンスタンに続きを促され、少し躊躇いながら口を開く。
(恐らくあなたのほうが、アンジェに愛されていますから……)
仲直りをしても尚、くちづけどころか触れることさえ嫌がられた件が、ルヴァの中で深い傷となって苛み血を流し続けている。
(あのひとを守りたいと思っているのは真実その通りです。ですけれど、あのひとに平気で触れている誰かも、触れられて嬉しそうなあのひとも、もう、もう見たくないです……!)
ルヴァは滂沱の涙を隠すように、両手で顔を覆った。
「……あなたがね、本当に強情で頑固でどうしようもなかったせいで、私はアンジェを手に入れ損ねたんですよ」
(ど、どういうことですか……?)
「あなたが他の感情を全て捨ててくれていたら、私はアンジェをパライソへ連れて行けた。それなのにあなたときたら、愛情だけは最後までかたくなに手放そうとしませんでしたからね」
くすくすと笑いながら、アンスタンは話を続けた。
「それに……気付きませんでした? あなたが捨てたはずの感情が、先程の本音の中にしっかりあったこと」
(あ……)
「今後も捨てきれると思っているのなら捨ててご覧なさい。そこに愛情という根が残っている限り、できっこありませんから」
(愛情ごと捨て去れたら、あのひとを忘れられたら、どんなに楽かと思いますよ……愛されていないと気付くよりかはね)
「愛されていない、ねぇ。これを見ても同じことが言えますか?」
その声と共に目の前へ映し出されたのは、泣きながら湖へ向けてルヴァの名を叫び続けるアンジェリークの姿。
それから何を思ったのか、靴を脱ぎ捨てて湖へと足を踏み入れていく。
(……アンジェリーク……! 待っていてと言ったのに……!)
「待てと言っておとなしく待っていられる人でないことは、良くご存知でしょう? 先程あなたが踏み外したようにあの湖はいきなり深くなっていますからね……あなたがとっとと戻らないと、彼女もここへ来てしまいますねー」
うまいことここへ来れたらの話ですけど、という言葉が続いてルヴァが青褪めた。
(だっ、だめです! アンスタン、早くアンジェを止めて下さい!)
「何を言っているんです。それができるのはレゾン、あなただけですよ。私としてはアンジェがここへ来るほうが好都合ですので」
(そんな……一体どうすればいいんですか)
「触れたいと願った想いが私の身体を創り、アンジェはそんな私たちの想いに引き寄せられてきましたけれど……私とあなたがどちらも彼女を愛するように、彼女もまた私たちのどちらかを選べない。ですから……」
そこで一瞬言葉が途切れ、少しの間沈黙が訪れた。
「あなたの中にいる私たちの声に、今一度耳を傾けてはくれませんか。あなたとアンジェリークのために」
強く頷くとアンスタンは声を出して笑った。ひとしきり笑った後、穏やかに最後の言葉を告げた。
「これでもう私たちは外をほっつき歩かずに済みますね。まずは手始めに、アンジェリークを抱き締めてみてはいかがです?」
作品名:わたしにとって、あなたにとって 作家名:しょうきち