わたしにとって、あなたにとって
一方その頃、アンジェリークは────
「ルヴァさま!!」
息せき切って飛び込んできたアンジェリークの切羽詰った表情に、それまで笑みを浮かべていた男の顔に緊張が走った。
「どうしたんですか、アンジェ……ああ、こんなに泣いて……ほら落ち着いて、何があったんです?」
ハンカチで彼女の頬を拭いながら、遂に時が満ちたことを知る。
「彼が来るわ……! お願い、逃げて下さい!」
拭ってもなお溢れ出る雫が頬を再び濡らしていく。だが男は小さく微笑んで、首を横に振った。
「初めに言ったはずですよ。この逢瀬は彼が気付くまでの間、期間限定のことだと」
男の指先がアンジェリークの震える唇をそうっと愛おしむようになぞり、それから荒々しく唇を奪った。
膝から崩れ落ちかけたアンジェリークを腕で支えながら桜色の唇を吸い上げた後、そっと囁く。
「どうか覚えておいて下さい……私は彼であり、彼もまた私であり、いつだってあなたを愛していると────」
彼の胸に顔を埋めたアンジェリークが微かに頷いたそのとき、彼らの背後から足音が近付いてきた。
男は震える金の髪に優しくくちづけて、アンジェリークを自分の後ろへと追いやり来訪者を見据える。
「ようこそ、地の守護聖殿」
息を切らせたルヴァもまた二人の姿を見つめ、乱れた息が治まったところでおもむろに口を開いた。
「……あなたは、ソリテアではないのですよね?」
その言葉ににこりと頬を上げ、男が頷く。
「ええ、違います。ですがとても近い存在ではあります」
ソリテアの一件を思い出し、ルヴァの拳に知らず力がこもる。それを見た男が慌てたように両手を顔の前で振った。
「私は誰かに害を為そうとしてはいませんからね」
腕にすがりつくアンジェリークに、男が身体を傾けて優しいまなざしで彼女の金糸に指を絡めている。
「単刀直入に伺いますが、あなたは何と言う存在で何が目的なんです?」
ふ、と鼻で笑う息遣いに僅かに苛立つルヴァ。
「アンジェが女王に決まった晩、あなたが捨てたものたちの集まり……ですよ。例えばアンスタン、例えばスエ、例えばテナシテ、そして……デジールと言う名の」
「……本能、願望、執着……欲望……」
男は悲しげに頷いた。
「歴代の守護聖たちが手放したものは孤独や絶望だけではなく、人として当たり前に抱える恋情や愛情、嫉妬などもあります。私はその中であなたが切り捨てた感情が形になった存在、と言えるでしょう。そうですね……ひとまずアンスタン<本能>、とでも名乗っておきましょうか」
彼女が女王に決まった日────
思い起こしてみればその頃までは彼女の甘い声も微笑みも、確かに全て自分へと向けられていた。
そして聖地中に広まり始めていた自分との噂や遠慮のないからかいに、彼女の女王としての名誉に傷がつくことを恐れ、節度ある付き合いにしようと告げた。
それからはアンジェリークの声が聞きたい、あの肌に触れたいと願った想いの全てをことごとく抑え込んで、いつしか痛みを感じなくなっていたのは事実だった。
それと同時に、彼女の心からの微笑みも見る機会はなくなっていた────
作品名:わたしにとって、あなたにとって 作家名:しょうきち