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Theobroma ――南の島で1

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 あの笑顔も、心遣いも、優しさも、あんなに熱かったキスも……。
「シロウ」
 その声に、びく、と震えた。
(なんで……)
 顔を上げると、アーチャーが微笑を浮かべている。
 なんだか、励ますようなことを言っているけど、よく理解できない。
 聞きたくない。
 優しさを浮かべた顔なんて、見たくない。
 全部、嘘なのに、俺をからかっているのに、アーチャーの言葉は本心からじゃないかって、そんな顔を見ると勘違いしてしまう。
「ごめんな」
「は?」
 アーチャーが驚いた顔で訊き返す。
「シロウ? 何を――」
「うん、ごめん」
 謝ることしかできない。
 アーチャーの優しさに舞い上がって、好きになんてなって、俺はほんとにどうしようもない。
「ごめん」
 アーチャーの頬を両手で包んだ。
 もう最後だから、許してほしい。
『好きだったよ』
 アーチャーの知らない日本語で言った。
「シロウ、それは、どういう意味、」
 答えられるはずもないから、そっとキスをして、精いっぱい、笑った。
「ごめん、アーチャー」
 キスをしたことも、好きになったことも、気持ち悪いだけだよな。
「おやすみ」
 アーチャーを残して小屋へと駆けた。
 もう、アーチャーを見ているのも辛いだけだったから。
 すべてを懸けた俺の夢も何もかも、全部を失った瞬間だった。



***

 突然、港に入って来た船から日本人が下りてきた。そいつは横柄な態度で、村長を呼べ、と言っているようだ。
 やがて島民が集められ、カカオマスの生産を一手に引き受ける、とその日本人は二段階の通訳を介して説明した。
『慎二!』
 そこへ血相を変えて現れたのは奴だ。
『お前! なに勝手なことしてるんだ!』
『衛宮が強情だからだよ。言うこときかないなら、強硬手段に出るって、言っただろ?』
 何を話しているかわからないが、奴が劣勢だということはわかった。
「島民の皆さんにお聞きします。カカオマス生産に携わってくださる方々には、今の倍の賃金で雇わせていただきます。したがって、わたくしどもの会社に、この島のカカオと労働力を託していただけませんか?」
 通訳が横柄な日本人の言葉を訳すと、島の人間はパッと顔を明るくした。
(まあ、そうだろうな)
 質素な生活が次第に変わってきていて、島の者たちが貨幣経済に触れて貪欲になるのは仕方がない話だ。
『決まったよね、衛宮?』
 奴は顔を紅潮させたままで何も言わない。
『そうそう、本国の方から明日お迎えが来るらしいよ。荷物、まとめておいたら?』
 奴は何も言い返すことなく、広場を去っていった。
 その背をオレは、ただ見ていた。
 何もかける言葉が浮かばなかったのが正直なところだ。
 奴を追い出そうとしていたが、新たな統括者が来たことで、奴を追い出すどころの話ではなくなってきた。
 島民がカカオマス生産に乗り気になったのなら、奴を追い出す必要もない。あの横柄な日本人と奴は険悪な感じだが、奴はこれからカカオマス生産の仕事だけに没頭できる。販路や流通のことに手間取られることなく、奴はカカオマスだけに関われる。
(ならば、その方がいいだろう)
 そうすれば、もう少し暇を持てる。
 このところ、食事時の奴は本当に疲れた顔をしている。あまり食欲もないようだ。これでは奴は身体を壊してしまう。
 少しでも休める暇が取れるというのなら、いけ好かない統括者でも言いなりになって、適当にあしらっていればいい。
(そうすれば、またオレとも……)
 そんなことを思って、ハッとする。
(オレは何を考えているのか……)
 最近はあまり奴と話すことがない。いや、二人でいることが少ない。
 食事を持って行っても、食べる量が減っているし、食べ終われば、奴はすぐにベッドに入っている。
 体調が悪いのかと訊くと、疲れているだけだと答える。
 それに、オレが小屋を出る時に言う言葉が気がかりだ。
 ありがとう、ごちそうさま、はいつもの通りだ、だが、最後に、ごめん、と奴は謝る。
 何を謝っているのだろう?
 オレは、謝られるような何かをされた覚えはないのだが……。
 不可解さが拭えない、ずっとこんな日が続いている。
 いつからだろう?
 いつからこんなふうに落ち着かない感じを覚えているのだろう、オレは……。

 夜の浜辺に来るのは久しぶりだった。
 昼間の一件で眠気が妨げられてしまい、寝付けない。
「…………」
 視線の先の人影に足を止めた。
 奴も眠れないのだろう。
 自分の立ち上げたカカオマス生産をあっさり奪われたも同然なのだから。
 だが、統括者ができたというだけで、カカオマス生産には何も支障はないはずだ。それでも、やはり、自分の作り上げたものを奪われるというのは納得がいかないものなのか。
「シロウ」
 一瞬、肩が震え、こちらを振り返った。
 その顔に、何やら胸騒ぎを覚える。
 だが、笑みを浮かべてこいつを励ましておく。また泣かれたりするのはごめんだ。正直なところ、オレはこいつの泣き顔など二度と見たくはない。あんなに心苦しい泣き顔を見たのは、初めてのことだった。
「あの日本人は、統括権を持ったというだけだろう? 今まで通り、」
「ごめんな」
「は?」
 意味がわからなくて、おかしな声が出る。
「シロウ? 何を――」
「うん。ごめん」
 こいつは謝るだけだ。
「だから、シロウ、何を謝ってい……る」
 両手で頬を包まれる。
「ごめん、――――――」
 何を言われたかわからない。また、こいつの母国語。
「シロウ、それは、どういう意味、」
 訊こうとしたオレの口を、温かいものが塞ぐ。
 キスをされたのだと理解したのは、離れた唇の熱を失ってから。
「ごめん、アーチャー」
 こいつは笑っている。
 オレの目の前で笑っているのに、どうしてこんなにも胸が疼く……。
「おやすみ」
 奴は小屋へと駆けていった。
 何も言えず、何も訊けず、立ち尽くすオレを残して。



 翌朝、港には本国との定期船から下りてきた政府関係者が数人立っていた。何かを待っている様子だった。そこへ、二人のスーツ姿の者に連行されるように歩いてきたのは、奴だ。
「あれぇ? あいつ、なんか悪いことしたの?」
 ルーリーが呑気な声を上げている。
 悪いことをした?
 それは、どんな?
 奴は、カカオマス生産で島の未来を、と……。
「シ……」
「アーチャー? どしたぁ?」
「シロウ!」
 駆け寄ったオレをスーツ姿の男が遮る。
「シロウ? どういうことだ? シロウ!」
 こちらを見ない。
「何があった! シロウ、どうして、お前がっ」
 奴はオレに一瞥もくれず、船に乗り込んでいった。船に入ろうとするオレをスーツ姿の男たちは留める。そいつらにワケを訊いても答えない。
 やがて、定期船が出港した。
 呆然と船を見送る。
 オレは、何をしているのだろう?
 オレは、彼に何をしたのだろう?
 無視されるようなことをしたのか?
 なぜ、島を出て行く?
 出て行くというのに、最後の挨拶もなしか?
(いや、昨夜……)
 謝られた。何度も。
 何を謝るのかと訊いても、答えなかった。
 それに、あれは、なんと言ったのか?
 島に日本語を解する者などいない。
作品名:Theobroma ――南の島で1 作家名:さやけ